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幻想の国北アフリカ
モロッコへの旅
Trip to Kingdom of Morocco, North Africa
モロッコ王国の基礎情報
Basic Information of Morocco
青山貞一 
Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda

初出:
4 Feb 2014
 拡充:9 October 2014
独立系メディア E-wave Tokyo  無断転載禁


 撮影:池田こみち Nikon Digital Camera Coolpix S6400

◆青山貞一・池田こみち: 幻想の国 北アフリカ モロッコ
   
1 モロッコ王国の基礎情報 18 フェス・マドラサ 35 カスバ街道:・バラの谷
2 モロッコの交通 19 フェス・技と巧(繊維織物) 36 ワルザザート 映画スタジオ
3 モロッコで出会ったネコ達 20 フェス・要塞から見た旧市街 37 アイット・ベンハッドウ1
4 カサブランカ・ムハンメドX世宮殿 21 フェス・技と巧(陶器工房) 38 アイット・ベンハッドウ2
5 カサブランカ・ハッサンU世モスク 1 22 フェスからイフレンへ ・絶景の旅1 39 アイット・ベンハッドウ3
6 カサブランカ・ハッサンU世モスク 2 23 イフレンからミデルトへ ・絶景の旅2 40 アイット・ベンハッドウ4
7 ラバト・首都 24 ミデルトからエルラシディアへ ・絶景の旅3 41 カスバ街道・アトラスに向かう
8 ラバト・ムハンマドX霊廟 25 エルラシディア・オアシス 42 アトラス山脈ティシュカ峠
9 ラバト・未完のハッサンの塔 26 エルフード ・化石工房 43 参考・アトラス山脈カスバ・テェルウェット
10 メクネス・悠久の城壁都市 27 メルズーガ ・駱駝(らくだ)ツアー1 44 アトラス山脈絶景
11 メクネス・華麗な霊廟 28 メルズーガ ・駱駝(らくだ)ツアー2 45 アルガン油の伝統製法
12 フェス・幻想の迷宮    29 エルフード ・砂漠ホテル 46 マラケシュ・概要
13 フェス・迷宮内の宮廷料理 30 カスバ街道・地下水路 47 マラケシュ・バイア宮殿
14 フェス・技と巧(彫金) 31 カスバ街道・ティネリール 48 マラケシュ・クトゥビーヤ・モスク
15 フェス・一般家庭でミント茶 32 トドラ渓谷 希有・特異地形1 49 マラケシュ・壁と門
16 フェス・技と巧(皮なめし) 33 トドラ渓谷 希有・特異地形2 50 マラケシュ・ジャマエルフナ広場
17 フェス・神学校 34 カスバ街道の絶景


はじめに

 以前から一度北アフリカ諸国を視察したいと考えていた。日本では、「イスラム」というだけで、なぜか危険で理解の及ばない国、地域と思われがちだ。まして「イスラム国」が出現してこの方、「イスラム」諸国は残忍なテロ集団と単純に結びつけられて考えられがちである。

 しかし、イスラム教諸国は、欧米などのキリスト教諸国とともに、世界のかなりの人々に深く広がっており、中東、北アフリカはもとより、インドネシア、マレーシアなどアジア諸国にも拡延している。

 下のグラフと地図は、2009年とデータは古いが世界の国別のイスラム人口を示している。世界の人口を68億人(2009年当時)とした場合、イスラム圏の人口は、15.7億人、割合で22.9%である。人口だけから見ると、アジアのインドネシアが一番多い国となっている。


出典:http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9034.html

 私達はイスラム国家のなかでも、北アフリカ諸国に関心がある。それはカルタゴのハンニバル以来、すなわちローマ帝国以来、栄え、衰退し、そして現在なお新たな社会文化的な勢力となっている諸国であるからと言って良いだろう。しかも、その多くは砂漠である。

 とりわけモロッコは、数ある北アフリカのイスラム諸国中でも、ベルベル人など独自の民族、文化の発祥地であり、悠久で幻想に満ちた国として大いに魅力的である。

 さらにモロッコは調べれば調べるほど、歴史的に見ていわば「持続可能な国」(Sustainable country)であるとことが分かってきたからである。ひょっとすると21世紀末、多くの先進国が滅びても、モロッコは生きながらえることが出来る国ではないかとさえ思えた。実際、モロッコに行ってみてその感を強くしている。

 さらに、あるひとが自身のブログのなかで次のように述べている。

 「今や全世界の若者たちが現在の政治システム、経済システムの欠陥あるいは虚偽というものに覚醒し嫌気がさしているように思える。半世紀前なら、プロレタリア独裁を目指す社会(共産)主義という受け皿があったが、それは潰えた。

 今やその受け皿としてイスラム国とその周辺は、大きな吸引力を持ち始めている気がしてならない。思えば19〜20世紀は、キリスト圏が世界を制覇してきた。

 しかし一方では、西洋人はキリスト教の強い軛(くびき)に苦しめられてきた。多くの著名人がそれに反抗し闘い殺されてきた。今でも、欧米ではうっかり自分は無神論者(エイシスト)であるとは言えないのだ(言うと、皆背中が凍りついたようになるという。昔は焼き殺された)。

 このキリスト教の猛威が300年も続いているのは絶対におかしい。そして実に深刻である。イスラム圏の力添えが必須なのかもしれない。イスラム国に入る多くの若者たちは、それを本能で嗅ぎ取っているように思える。

 21世紀以降はイスラム圏が世界を制覇していく蠢動なのだろうか。これが世界全体を引っくり返す太い奔流となって21世紀を流れつづけるのか。20世紀までの古典的とも言える枠組みのなかに再度押しこめられ、消沈していくのか。世界史大変革の曲がり角に差し掛かっていると考えたくなる。


 今後、世界諸国において持続可能性という観点から見てその可能性を評価するとすれば、意外とモロッコのような砂漠のイスラム圏は、かなり高い評点を得るのではないかとさえ思える。砂漠のイスラム圏の多くの国は、言うまでも無く文明の発祥地でもある。

 先進国やBRICS諸国、さらにはG7、G8、G20などの諸国は、経済成長の観点だけで、自分たちの優位性を顕示してきた。しかし、人類の歴史から見れば、それらとくにG8の国々は物質至上主義、経済至上主義、成長至上主義、エネルギー資源浪費国であって、悠久の人類の歴史のほんの一時期において興隆したに過ぎないのである。

 すくなくとも、イスラム圏を理解するためには、悠久の人類の歴史との関連で自身の思考のパラダイム・チェンジがなければ到底理解が及ばないと思える。

 エネルギー資源を湯水に浪費し飽食なG7、G8などの国々に対し、モロッコに象徴されるイスラム圏諸国は、その真逆の文化圏であり国々であると言える。これ以上なく質素な生活、それでいて高い精神性を持っているのではないかと思わせる。

 いくら経済的に貧しくとも、物質文明を追い求め経済成長をひたすら走ってきた欧米日本などの国にはない、凛とした精神文化を持っているかも知れない。もちろん、これはすべてのイスラム諸国について言えることであるかどうかは分からない。しかし、今回モロッコを旅して、強くそう感じたのである。


ベルベル人になった気分 アイット・ベンハッドウ集落にて
  撮影:添乗員 Nikon Digital Camera Coolpix S6400


モロッコ行きの準備

 2014年1月24日〜1月31日にかけ北アフリカのモロッコ王国(通称、Morocco、モロッコ)に青山貞一、池田こみちで現地視察にでかけてきた。とはいえ、今回は単独旅行ではなく、25名程度のツアーへの参加である。

 モロッコに行く前、チュニジアに行く詳細な計画を立てていた。しかし、その直後、いわゆる一連の「アラブの春」騒動が起き、政情が不安となったので、立てた計画は一旦中止した。

 私たちは過去60カ国以上出かけているが、どの季節、時期に行くかで費用トータルは倍以上異なる。そして現地視察はすべて自分たちであらかじめ訪問国、訪問地などを徹底的に調べ、代替案を立て、次に格安航空券、格安ホテル、格安レンタカーを自分たちで探し予約してきた。

 どの国でもレンタカーを使っている。2012年7月にでかけたスコットランド現地調査では10日間で2200kmを走破している。実はレンタカーも信じられないほど格安なものがあり、世界各国でそれを使っている。1週間借りても中級ホテル一泊程度のものもある。
 
 その結果、円高時代、世界のどこに行くにも一人当たり15万円程度しかかからず、それでいて結構、充実した現地調査を行うことが出来ている。それもこれも、円高のおかげであったが、安倍政権になってから人為的な円安政策が敢行され、同時に燃料サーチャージがバカ高となり、自前の格安海外視察ができなくなった。

 ところで、私達は旅行代理店によるグループツアーはほとんど行っていない。せいぜい研究所の社内旅行で数度利用しただけである。

 2013年12月、航空券やホテル予約などでときどき利用している旅行代理店から月に1回送られてくる資料に、
北アフリカのモロッコへの約1週間の旅があった。しかも、何と航空券、ホテルはもとより燃料サーチャージ、全食事込み、日本からの添乗員、現地ガイド、さらに要所で別途専門ガイドが付く、にもかかわらず料金が信じられない額のプランがあった。間違いではないかと思うリーズナブルな価格であった。

 通常、季節、時期にもよるがモロッコへの上記の旅行は、旅行代理店各社とも、ひとりあたり30万円近くなる。それが半分以下(13万円台)であったのである。実際、同社の一般広告を見たら時期にもよるが、同じ内容の旅行は25〜30万円となっていた。これには目を疑った。

 そこで同社にすぐに電話連絡した。当初、電話口に出た担当者は、上記のツアーの存在を知らなかったが、ツアー番号を伝え確認してもらったところ、そのときはまだ誰も申込者はいないと言われた(笑い)。旅行代理店からいつも送られてくる冊子ではなく、別刷りのパンフレットであったので、ひょっとしたら一部のひとを対象に代理店が周知を図ったのかも知れない。

 その後、25人までツアー参加希望者が増えた。ただ、この旅行は2人以上から敢行すると書いてあったので、2人でもほぼ同じ内容の旅行をしてくれるはずであった。

 
◆現地視察の訪問先と日程

 ということで、思わぬ機会に恵まれ、北アフリカのモロッコを現地視察する機会を得た。下が日程別の詳細な訪問先である。
黄色で示した部分は世界遺産である。

 本論考(50本のブログ)は、以下の視察順序に沿って書いているものの、下の経路、訪問先は、あくまで実際に訪問した順序と場所をもととしている。一部、当初の企画内容と異なる部分があった。

 2014年1月24日 成田空港 → トルコのイスタンブール空港へ移動
              イスタンブール空港で5時間トランジット
              イスタンブール空港 → モロッコのカサブランカ空港へ移動
              翌日昼過ぎ到着、 航空会社はトルコ航空。  

 2014年1月25日 モロッコのカサブランカ空港着
              カサブランカ市内現地視察
              ムハンメド五世宮殿
              ハッサンU世モスク 
              カサブランカ → 首都ラバトへ移動(大型バス)
 
             ラバト市内現地視察
              ラバトの王宮、モスク視察

              ラバト王宮近くのホテルに宿泊 

 2014年1月26日 ラバトのホテル → ムハマンド五世霊廟へ移動(大型バス)
 
             ラバト市内現地視察
              ムハンメド五世霊廟視察
              未完のハッサンの塔(ミナレット)視察  
             
ラバト → メクネス移動(大型バス)
              メクネス・モスク視察
              メクネス・マンスール門視察
              メクネス・メディナ視察
             
メクネス → フェス移動(大型バス)
              フェス・メディナ視察
             
フェスのレストランの宮廷料理で昼食 
              フェス・彫金工房、皮なめし工房視察
              フェス・一般家庭でミント茶試飲  
              フェス・アッタリン神学校視察
              フェス・繊維織物工房視察

              フェスメディナ → フェスのホテルに宿泊

 2014年1月27日 フェスのホテル →
 フェスの小高い丘へ移動(大型バス)
              フェス・要塞視察
              フェス・陶器工房視察

              フェス → イフレン移動(大型バス)
              イフレンで休憩、イフレンは高原の別荘地
              イフレン → ミデル移動(大型バス)
              メデルトで昼食           
              メデル → エルラシディアへ移動(大型バス)
              エルラシディアで休憩
              エルラシディア → エルフードへ移動(大型バス)
              エルフードの化石工房視察
              エルフードのホテルに宿泊 

 2014年1月28日 エルフードのホテル → メルズーガへ移動(4WD)  
              メルズーカ → 砂漠地帯へ移動(ラクダツアー)
              エルフード → カスバ街道へ移動(大型バス)
              カスバ街道・地下水路視察
              カスバ街道・ティネリール視察
              トドラ渓谷 特異地形視察
              トドラ渓谷のレストランで昼食
              カスバ街道の絶景を車窓から視察(大型バス)
              ワルザザードのホテルに宿泊


メルズーガの砂漠でラクダに乗る池田こみち
撮影:Nikon Digital Camera Coolpix S6400

 2014年1月29日 ワルザザードのホテル → カスバ街道(大型バス)
              映画スタジオ外部を視察
              ワルザザード →  カスバ街道(大型バス)
 
            
アイット・ベン・ハッドウ視察(単独で世界遺産の文化遺産登録) 
              アイット・ベン・ハッドウ → アトラス山岳越え(大型バス)
              アトラス山脈ティシュカ峠で休憩
              アトラス山脈絶景を車窓から視察(大型バス)
              アルガン油の伝統製法工房視察
              アトラス山脈 → マラケシュ市街へ到着(大型バス)
              マラケシュのメディアで昼食
              マラケシュ・バイア宮殿視察
              マラケシュ・クトゥビーヤ・モスク視察
              マラケシュ・壁と門視察
              マラケシュ・ジャマエルフナ広場視察
              マラケシュのホテルに宿泊

 2014年1月30日 マラケシュのホテル → カサブランカ空港へ移動(大型バス)
              カサブランカ空港 → トルコのイスタンブール空港へ移動
              イスタンブール空港で4時間トランジット
              
 2014年1月31日 トルコ・イスタンブール空港 → 成田空港へ移動
              成田空港に夜に到着

 以下は上記の視察ルートを地図に落としたものである。モロッコの主要部、主要地形地を網羅していることが分かる。なお、地中海(北大西洋)が見えたのは、カサブランカとラバトである。


モロッコ現地視察の経路図 グーグルマップ地形図より青山貞一作成

 モロッコ国内の移動はすべて大型バスである。これについては、次のブログ(モロッコの交通)を参照されたい。全行程、道路はよく整備されており、大都市部のメディナ近く以外は、渋滞もなかった。


移動に使用したアトラスライダーのバス
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S6400

 以下はグーグルマップ(アース)でみたモロッコである。


大きな地図で見る   出典:グーグルマップ(アース)


◆モロッコ基礎情報

モロッコ国の基礎データ

国歌 国王万歳
国旗
モロッコの位置
公用語 アラビア語、ベルベル語
首都 ラバト
最大の都市 カサブランカ
国王 ムハンマド6世
首相 アブデルイラーフ・ベン・キーラーン
面積 総計 446,550km2(56位)
水面積率 0.1 %
人口 総計(2012年) 32,520,000人(???位)
人口密度 72人/km2
GDP(自国通貨表示) 合計(2008年) 6,714億モロッコ・ディルハム
GDP(MER) 合計(2008年) 863億ドル(57位)
合計(2008年) 1,367億ドル(51位)
GDP(PPP) 1人あたり 4,349ドル
独立 フランスから1956年3月2日
通貨 モロッコ・ディルハム(MAD)
1MADは約12.5円(2014.2現在)
時間帯 UTC ±0(DST:なし)
国際電話番号 212
出典:Wikipedia


●モロッコの世界遺産

 以下は、モロッコの世界遺産とその登録年である。いずれも文化遺産として登録されている。なお、今回の現地超では、9つあるモロッコの世界遺産のうち5カ所を訪問した。●が付いた地域が実際に訪問した世界遺産である。

1981年●
1985年●

1987年●
1996年●
1997年

1997年
2001年
2004年

2012年●
フェス旧市街                   
マラケシ旧市街                  
アイット=ベン=ハドゥの集落         
古都メクネス                   
ヴォルビリスの古代遺跡
テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン)
エッサウィラのメディナ(旧名モガドール)
マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市
近代的首都と歴史的都市をあわせもつ遺産ラバト  
●は今回視察したカ所  出典:国連UNESCO

 以下の写真は、アイット・ベン・ハドゥという世界遺産で撮影したものである。たくさん、視察、訪問したが、広大な砂漠の中に忽然と存在するアイット・ベン・ハドゥは、最も印象深い訪問先であった。


世界遺産、アイット・ベン・ハドゥに通ずる川にかかる橋
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8


●モロッコの言語の概要   参考:Wikipedia

 モロッコは戦前フランス領であった。

 モロッコは、1956年にフランスから独立するまでは、スペイン、フランスの統治を受けていたこともあって、現在でもスペイン語(特にモロッコ北部)、フランス語(山岳地方を除きほぼ全領域)が使われている。

 とくにフランス語は、モロッコ国民に深く浸透しており、英語は通じなくてもフランス語が通ずることが多かった。

 モロッコの言葉は、アラビア語とベルベル語が公用語である。国民の大半は学校教育で正則アラビア語を学習しつつも日常生活ではモロッコ特有のアラビア語モロッコ方言を話しているため、他のアラビア語圏の住人とは意思の疎通が困難である。

 また、モロッコはフランスの保護領であったためフランス語が第二言語として教えられ、政府、教育、メディア、ビジネスなどで幅広く使われ、全世代に通用する。一方、北部モロッコではスペインの影響が強く、スペイン語もよく通じる。公文書は基本的にアラビア語、一部の書類はフランス語でも書かれている。


◆モロッコの宗教概要 出典:Wikipedia

 1961年にイスラム教が国教となっており、イスラム教スンニ派が99%を占める。キリスト教とユダヤ教も禁止されてはいない。

 モロッコのモスクの尖塔(ミナレット)の写真の上部にある3つの●は、下からイスラム、キリスト、ユダヤのそれぞれの宗教を示す。また竿が指している三角形の方向はアラビアのメッカである。


エルベズ・モスク, ミナレットの頂上部分
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8


◆モロッコの政治と軍事の概要 出典:Wikipedia

政治の概要

 国家体制は国王を元首とする立憲君主制国家である。現国王として在位しているのは
アラウィー朝のムハンマド6世である。

 モロッコの国王はアミール・アル=ムーミニーン(カリフ)を称する。憲法によって議会の解散権や条約の批准権を認められており、軍の最高司令官でもある。

 2011年の2月から4月にかけて起きたいわゆる「アラブの春」の影響でモロッコでもデモが発生し、憲法改正が承諾された。同年7月、憲法改正により国王の権限縮小と首相の権限強化がなされている。

 議会は1996年から両院制に移行し、下院は5年の任期で定数は325議席、上院は9年の任期で定数は270議席である。

 2007年に行われた下院選では、保守系の独立党(イスティクラール党とも)が52議席を獲得し第一党、イスラーム主義の公正発展党が46議席で第二党、選挙前の最大勢力であった左派の人民勢力社会主義同盟は大きく議席を減らし、38議席になった。

 2011年11月25日に実施された下院選挙では定数395議席の内、公正発展党 (PDJ) が80議席を獲得し、第一党となった。政党連合「民主主義連合」を形成する独立党(イスティクラール党)は45議席となった。今回の選挙は、これまで国王任命であった首相が選挙で多数議席獲得の政党から選出される。

 合法イスラーム主義政党の公正発展党以外にもモロッコ・アフガンやサラフィスト・グループなどの非合法イスラーム主義組織が存在するが、2003年のカサブランカでの自爆テロ事件以降、イスラーム主義組織は厳しく取り締まられている。

軍事の概要

 モロッコには18か月の徴兵期間が存在し、50歳まで予備役義務が存在する。

 国軍は王立陸軍、海軍、空軍、国家警察、王立ジャンダルメ、外人部隊からなる。

 国王は憲法によって軍の最高司令官であると規定されている。国内警備はうまく行っており、2003年のカサブランカでのテロのような例外を除き政治的暴力は稀である。国連は小規模な監視部隊を多くのモロッコ兵が駐留している西サハラに維持している。


◆モロッコの行政区画の概要  出典:Wikipedia

 モロッコは16の地域と38の地方で構成されている。この行政区画はサハラ・アラブ民主共和国の主張する領土を含んでいる。

表  モロッコの行政区画
地域 首府 人口 面積 人口密度
(2004年) (km2) (/km?)
1 シャウイア=ウアディギャ地方 セタット 1,655,660 16,760 98
2 ドゥカラ=アブダ地方 サフィ 1,984,039 13,285 149
3 フェズ・ブルマーヌ地方 フェズ 1,573,055 19,795 79
4 ガルブ=チャラルダ=ベニ・ハッセン地方 ケニトラ 1,859,540 8,805 211
5 グランド・カサブランカ地方 カサブランカ 3,631,061 1,615 2,248
6 ゲルミン=エス・セマラ地方) ゲルミン 462,410 122,825 3
7 アイウン=ブジュール=サキア・エル・
ハムラ地方
アイウン 256,152 39,480 6
8 マラケシュ=テンシフト=エル・ハオウズ地方 マラケシュ 3,102,652 31,160 99
9 メクネス=タフィラーレ地方 メクネス 2,141,527 79,210 27
10 オリアンタル地方 ウジダ 1,918,094 82,900 23
11 オウィド・エッ=ダハブ=ラゴゥィラ地方 ダフラ 73,067 50,800 1
12 ラバト=サレ=ゼムール=ザイール地方 ラバト 2,366,494 9,580 247
13 スース=マッサ=ドゥラー地方) アガディール 3,113,653 70,880 43
14 タドラ=アジラル地方 ベニ・メラル 1,450,519 17,125 84
15 タンジェ=テトゥアン地方 タンジェ 2,470,372 11,570 213
16 ターザ=アル・ホセイマ=タォウナテ地方 アル・ホセイマ 1,807,133 24,155 74
 出典:Wikipedia


図   モロッコの行政区画   出典:Wikipedia


●北アフリカ、地中海世界とモロッコの関係

 現在のモロッコ王国、通称モロッコは、
北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。東にアルジェリアと、南にサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)、北にスペインの飛び地セウタ、メリリャに接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバトである。

 地中海世界とアラブ世界の一員であり、地中海連合とアラブ連盟とアラブ・マグリブ連合に加盟している。モロッコはサハラ・アラブ民主共和国を自国の一部であるとの立場から独立国家として承認しておらず、1984年にサハラ・アラブ民主共和国のアフリカ統一機構加盟に反対して同機構を脱退している。以来、現在もモロッコはアフリカ大陸唯一のアフリカ連合非加盟国となっている。

モロッコの歴史の概要

 先史時代、ベルベル人が現在のモロッコに現れ、古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人の港湾都市が築かれた。

 内陸部ではベルベル系マウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマ属州となった。

 なお、カルタゴは最盛時、下の地図にあるように、現在の国名、地域名で示すと、チュニジア共和国はじめリビア、アルジェリア、モロッコ、ジブラルタル、スペイン、コルシカ島、サルディニア島、シシリア島の一部と北アフリカを中心に多くの地中海沿岸地域を属領とし、イタリアのローマに迫っていた。


カルタゴ最盛時の勢力範囲(青い色部分)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

◆青山貞一:ローマ帝国に挑んだ男〜天才軍師ハンニバル(拡充版)

 ローマ帝国が衰退する429年にゲルマン系のヴァンダル人がジブラルタル海峡を渡り、アフリカに入った。

 マウレタニアはユスティニアヌス1世の時代には再び東ローマ帝国の下に置かれたが、8世紀初頭に東方から侵攻したウマイヤ朝の軍隊がモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。

 1130年ムワッヒド朝が成立。1147年にムワッヒド朝がムラービト朝を滅ぼす。第3代ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は東はリビアにまで勢力を伸ばし、マグリブ一帯を包括する最大版図を確立した。

 続くムハンマド・ナーシルは1212年、ラス・ナーバス・デ・トローサの戦いで有名なレコンキスタ連合軍に敗れ、アンダルシアの大部分を喪失した。ムワッヒド朝はこの戦いの後、衰退を続け、1269年にマリーン朝によってマラケシュを攻略され滅亡した。

 マリーン朝の滅亡後、1472年ワッタース朝フェス王国が成立した。1492年にカトリック両王の下で誕生したスペイン王国がナスル朝を滅ぼしてレコンキスタを完遂すると、ワッタース朝はポルトガルに加えスペインの脅威をも受けることにもなった。ワッタース朝は衰退し、ポルトガルに攻略されたアガディールなどを奪還したサアド朝(サーディ朝)によってフェスを攻略され、1550年に滅亡した。

 サアド朝は、ザイヤーン朝を滅ぼしアルジェリアにまで進出したオスマン帝国を退け、キリスト教徒との戦いでも、1578年にアルカセル・キビールの戦いでポルトガル軍を破り、ポルトガルの国王セバスティアン1世は戦死。これがきっかけになり1580年にポルトガルはスペイン・ハプスブルク朝に併合された。

 1660年に現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。続くスライマーンは鎖国政策を採った。

 1830年にフランスがアルジェを征服したことにより、マグリブの植民地化が始まると、モロッコの主権も危機に脅かされた。1844年にアラウィー朝はフランス軍によるアルジェリア侵攻の中で、アブデルカーデルを支援して軍を送ったが、イスーリーの戦いで敗れた。

 1936年に駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。

 スペイン内戦では7万人近いモロッコ人兵士が反乱軍側で戦った。第二次世界大戦中には自由フランスがヴィシーフランスからモロッコを奪回し、1943年に連合国のウィンストン・チャーチルとフランクリン・ルーズヴェルトによってカサブランカ会談が開かれた。

 第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で、1930年代から盛んになっていた独立運動が過熱し、ゲリラ闘争とスルターンのイニシアチブの双方の効果もあって1956年フランスから独立した。

 スペインはセウタ、メリリャ、イフニの「飛び地領」とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄した。翌1957年にスルターン・ムハンマド5世が国王となり、スルターン号が廃止された。1957年にイフニを巡ってスペインとの間でイフニ戦争が勃発し、紛争の結果スペインは南部保護領だったタルファヤ地方をモロッコへ返還した。

 1961年にハサン皇太子が父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。ハサン2世は内政面では政党を弾圧し、軍部と警察に依拠して国内を統治しながら外資導入を軸に経済発展を進め、対外的にはアメリカ合衆国をはじめとした西側諸国との協力関係を重視しながらも、パレスチナ問題ではアラブを支持した。

 1965年にはハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカがパリで失踪する事件が起こった。1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。

 1969年にはスペインが「飛び地領」のイフニをモロッコに譲渡したが、スペイン領西サハラはスペインの領有が続いた。1972年、ハサン2世の信任が厚かったムハンマド・ウフキル(将軍による国王が搭乗するボーイング727撃墜未遂事件が発生し、ウフキル将軍とエリート幹部の排除が行なわれた。

 1975年11月に西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。1976年にはモロッコとモーリタニアによって西サハラの統治が始まったが、同年アルジェリアに支援されたポリサリオ戦線がサハラ・アラブ民主共和国の独立を宣言。激しいゲリラ戦争の後、モーリタニアは西サハラの領有権を放棄したが、モロッコは実効支配を続けた。

 1989年にはマグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。1991年には西サハラ停戦が成立したが、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題となっている。

 2002年、ペレヒル島危機が起こり、スペインとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。 2003年5月16日にイスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生するなど、イスラーム主義者を中心に現体制への不満はあるものの、ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなどリベラルな改革を進める立場を示している。

参考:Wikipedia


◆モロッコの地方自治の概要

 モロッコの地方自治に言及した資料は以下の情報以外ほとんどなかった。


 モロッコの地方自治制度は、フランスからの独立直後の1960年に発令されたダヒール(モロッコ国王令)の中で、コミューン制度(市町村に該当)が制定されたことに始まる。

 その後さらに1963年9月12日の改正により県制度が導入され、それぞれに議会が設けられた。1976年に公布された法律は、コミューンに大幅な権限を与えるものであった。

 その後5度にわたり憲法が改正されたが、いずれも地方自治体の存在を認めるものであった。モロッコの地方行政制度は「県」と「コミューン」の二層制をとっている。

 現在「州制度」の導入に向けて法案が国会で審議中である。県およびコミューン数は1997年2月現在でそれぞれ65と1546である。この数は増加傾向にある。それぞれの権限は次の通りである。

 県:総合計画およびその実施、産業の再配置事業、公共サービスの創設と運営、県道の維持管理、県税の課税基準・課税額等の決定。コミューン:経済および社会発展計画の策定、公共サービスの創設とその運営、都市開発計画の調査、地方経済混合会社への資本参加の決定、市税の課税基準・課税額等の決定などである。

 一方国は自らの施策を進めるため独自の区域を設けている。経済州(7州)、ワラヤ(大都市圏・9区)、小行政区(158)、カイーダ(イスラム教官吏が治める地域で裁判、行政、警察などをつかさどる・505)などがそれに当たる。

出典: http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/articles/jimusyo/094PARI/INDEX.HTM


◆モロッコ経済の概要  出典:Wikipedia

 カサブランカはモロッコ最大の経済都市であり、アフリカ有数の世界都市である。

 IMFの統計によると、2010年のモロッコのGDPは917億ドルであり]、日本の福島県とほぼ同じ経済規模である。ただし、いわゆる3.11以前の福島県である。

 一人当たりのGDPも3,000ドルを超えており、アフリカでは比較的豊かな国でありアジアなどの新興国とほぼ同じレベルである。

 
しかし、現地で感じたのは、一人当たりのGDPでは表せない、モロッコ人のいわば持続可能性であった。将来、いわゆる先進諸国の経済、財政が行き詰まり、また高齢化、少子化が進んでも、モロッコはそれらをものともせず、生き残れる国であり、次世代に持続可能な国となるのではないかと予感した。

 モロッコは産油国ではないが、鉱業と軽工業など産業のバランスもよくアフリカでは経済基盤も発達している。埋蔵量世界1位のリン鉱石を中心とする鉱業と、生産量世界第6位のオリーブ栽培などの農業が経済に貢献している。

 大西洋岸は漁場として優れており日本にもタコなどが輸出されている。観光資源も豊かである(観光収入は22億ドルに上る)。工業国とは呼べないが、衣料品などの軽工業のほか、石油精製や肥料などの基礎的な諸工業が発達している(以下、統計資料はFAO Production Yearbook 2002、United Nations Industrial Commodity Statistical Yearbook 2001年を用いた)。その他ヨーロッパ連合諸国に出稼ぎ、移住したモロッコ人による送金も外貨収入源となっている。

鉱業

 鉱業生産は、リン鉱石(採掘量世界第2位)、鉛鉱(同7位)、コバルト鉱(同8位)が有力だが、銅、亜鉛、金、銀なども採掘しており、天然ガスも豊かである。

 ただし原油の採掘量は1万トンと極めてわずかである。鉱物資源はアトラス山脈の断層地帯に集中しており、アトラス山脈の造山活動によるものだと考えられている。

 たとえば、マラケシュ近郊やメリリャに近いウジタで亜鉛や鉛が採掘されている。リンはカサブランカ近郊で採れる。

農業

 大西洋岸、地中海岸では天水に頼った農業が可能であり耕地面積は国土の21%を占める。農業従事者は429万人(2005年)である。

 国際連合食糧農業機関 (FAO) の統計(2005年)によると、世界第7位のオリーブ(50万トン、世界シェア3.5%)、第9位のサイザルアサ(2200トン)が目立つ。

 世界シェア1%を超える農作物は、テンサイ(456万トン、1.9%)、オレンジ(124万トン、1.5%)、トマト(120万トン、1.0%)、ナツメヤシ(6万9000トン、1.0%)がある。

 主要穀物の栽培量は乾燥に強い小麦(304万トン)、次いでジャガイモ(144万トン)、大麦(110万トン)である。畜産業は羊(1703万頭)、鶏(1億4000万羽)を主とする。

工業

 工業は、リン酸肥料(生産量世界第6位)、オリーブ油(同9位)が目立つが、ワインや肉類などの食品工業、加工貿易に用いる縫製業も盛んである。


◆食文化     出典:Wikipedia

 モロッコ料理は世界で最も多様性に富んだ料理の一つと見なされてきた。

 これは数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果である。

 モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。

 モロッコ料理は土着のベルベル料理、スペインから追放されたモリスコがもたらしたアラブ・アンダルシア料理、トルコ人によってもたらされたトルコ料理、アラブ人がもたらした中東料理の影響を受けており、ユダヤ料理の影響も同様である。


宮廷料理レストランのダイニングでのメインディッシュ
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Coolpix S8

 香辛料はモロッコ料理に広く使われる。香辛料は数千年来モロッコに輸入され続けたが、ティリウニのサフラン、メクネスのミントとオリーブ、フェスのオレンジとレモンなどの多くの材料は自生のものである。

 モロッコで最も一般的に食される赤味の肉は牛肉であり、国産の羊肉は好まれるが相対的に高価である。主なモロッコ料理としてはクスクス、タジン、ハリーラなどが挙げられる。アッツァイと呼ばれるミント緑茶に大量の砂糖を加えて飲む習慣がある。

 モロッコ各地で食事をした上での感想としては、最初に出るのはサラダだが、大部分のレストランではいわゆるドレッシングがなく、自分で塩をかける程度であった。新鮮な野菜、果物がでたこともあり、サラダ用のドレッシングがあればと感じた。

 一方、メインの食事は豚肉は宗教との関係で使用厳禁となっており、大部分のレストランで鶏肉か牛肉、さらにマトン(羊肉)が調理方法にかかわらずたびたび提供された。またスープ、チーズ、マトンを使っているレストランが多かった。やはり多くの日本人にはケバブなどの調理をしている場合以外、マトンは食べにくいものがあるだろう。

 調理方法は、タジン鍋を使う料理が野菜、肉を問わず多かったが、この調理法は現在日本でも流行しており、比較的短い時間で調理できることに加え、美味であった。さらに熱の使用効率が高いので、省エネでもある。

 デザートにでた果物としては、オレンジが多かったが、モロッコのオレンジは非常にジューシーで、どこでもおいしかった。

 総じてモロッコの料理は、見た目も美しく、マトン問題以外は日本人にも何ら問題なくおいしくいただけるものと思えた。


日程別地域別ブログについて

 この後、50本に及ぶブログをご覧いただくことになるが、ブログでは原則として青山、池田が撮影した写真、ビデオを使用している。

 なお一部、トリップアドバイザーからの写真を使用した。歴史などの記述は主にWikipediaを出典をつけ使っている。また可動式地図はグーグルマップ(アース)を埋め込んでいる。


つづく