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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(文化)
前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆漢 文化(中国)


出典:中国歴史地図庫

 以下は漢の文化の概要です。

文化

 史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年に蔡倫が樹皮や麻のぼろから紙を作り、和帝に献上したと記しているため、従前は紙の発明者は蔡倫とされていました。しかし、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっています。

 世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものと考えられ、前漢時代の地図が書かれています。年代的には紀元前150年頃のものと推定されています。

思想

 漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期には権勢家を中心とする黄老思想と秦以来の刑名思想が流行、時代と共に支配層にも儒教が広まり、王莽(おうもう)から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言えます。

 注)王莽(おうもう)
  前漢の外戚として有力となり、皇帝位を奪って後8年に新王朝をたてました。 その復古的な政治は豪族、民衆の不満を強め赤眉の乱などの反乱が起き、23年に殺されなした。


儒教

 あるものは当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていました。このことから前者を今文・後者を古文といいます。内容は基本的に同じですが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になりました。

 更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになりました。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝(ふくしょう)が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』があります。

 注)伏勝(ふくしょう、生没年未詳)
  前漢初期の儒学者。伏生ともいいます。済南郡の出身で、もとは秦の博士でした。漢の文帝の時に『尚書』を良く知る者を求め、伏勝の名がありましたがこの時彼は90歳におよんでいたために召すことができなかったのです。そこで文帝は太常に詔して、掌故である鼂錯を伏勝のところへ行かせて学ばせました。


 五経博士とは五経である『詩』・『書』・『礼』・『易』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっています。

道家

 黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つです。信奉者として挙がるのは、高祖の功臣の一人曹参です。曹参は斉の丞相を務めていた際に、蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたので、その言葉を聞いて斉を治めたといいます。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となりましたが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めていました。

仏教

 仏教の中国伝来に付いては元寿元年(紀元前2年)に月氏を通じて『浮屠教』が伝来したというのが諸説の中でも最も早いものの1つとなっていましたが、前漢代には社会への影響力はほとんどありませんでした。

文学

歴史

 歴史の分野で取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』です。二十四史の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も大きいと言えます。『史記』は司馬遷の個人の著作として書かれたものですから、後の史書と違い自由に司馬遷の思想が表れており、文学作品としても高い評価があります。

 『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられます。

漢詩

 前漢代には漢詩(例えば杜甫・李白のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる2つの流れが存在していました。

芸術

 前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかったようです。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものです。このようなものを土中古といいます。

墳墓


陝西省咸陽、西漢の軍人の墓から出土した騎兵の陶磁器
Source:Wikimedia Commons
Editor at Large - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 2.5, リンクによる



西もしくは東漢の鉛鞍がある青銅馬像
Source:Wikimedia Commons
User:PericlesofAthens - Self-made at the Freer and Sackler Galleries, Washington D.C., CC 表示-継承 4.0, リンクによる

 
★【動画】 南京博物院の秘蔵品 前漢時代の「金縷玉衣」を紹介 AFPJ

 漢代の墳墓からは副葬品の食器・家具などが大量に出ています。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もありましたが、それであると費用が莫大になってしまうため、実際のものを模した土器を代わりに入れました。これを明器といいます。明器は非常に趣向に富み、食器・家具・家屋、鶏・犬などの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれます。

 もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土しています。そのほかの副葬品として竹簡・木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっています。

 漢代の出土物として特筆すべきものの一つに馬王堆漢墓で見つかっています。保存状態の良好な女性の遺体があります。彼女は長沙国の丞相を務めた利蒼の妻で、発見時には頭髪も皮膚もきちんと残っていました。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻っています。

 もう1つは劉勝の墓・満城漢墓などで発見されている金縷玉衣です。玉の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって遺体を蓋っています。地位によって銀縷・銅縷の3段階があり、絹糸で縫う絲縷もあります。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていました。『西京雑記』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのですが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張であると思われていました。

絵画

 墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたっています。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いのですが、立体性はほとんどなく、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものです。これを画像石と呼びます。

陶磁器

 漢代の陶磁器は広く釉薬が用いられるようになり、陶磁器の歴史において契機となった時期です。

 戦国では灰釉が主流で鉛釉もありましたが、出土例は少ないようです。それが漢代になると急速に普及し、緑釉(酸化銅)が盛んに使われ(ギャラリーの酒器が緑釉)三足の様式と共に流行し、その他に褐釉(酸化鉄)や黄釉・青磁が広く作られました。

 緑釉と褐釉は低温度(800度ほど)で焼かれ、緑釉陶の主な用途は投壺と呼ばれる遊戯用や祭器でした。黄釉陶は主として酒樽に用いられました、青磁は高温(1300度ほど)で焼かれ、主に瓶や保存容器などに使われました。その他、醤油や酢・油などの調味料の保存や水瓶・匙や皿など様々な食器・酒坏に陶磁器が用いられました。

 上流層は日常的な食器として青磁や黄釉陶を、祭祀用に緑釉陶などを使い、下流層は灰釉の陶器を主に使っていたようです。

服飾


湖南省長沙の馬王堆漢墓より出土された絹の旗。長沙王国の高官、
利蒼侯爵の妻辛追の棺に掛けられていた。
Source:Wikimedia Commons
Screenshot stitched from马王堆汉墓陈列全景数字展厅 (flash website). Changsha: Hunan Provincial Museum., パブリック・ドメイン, リンクによる


2000年前の漢代の墓見つかる 中国・江蘇省  出典:AFP

 湖南省長沙の馬王堆漢墓より出土された絹の旗。長沙王国の高官、利蒼侯爵の妻辛追の棺に掛けられていました。

 漢代において周代より続く深衣は男性はあまり着なくなりました。深衣とは十二単のように袍という衣を何枚も重ねて着るものです。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が1枚・下着が1枚というのが一般的になりました。

 身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着ています。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれます。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかったようです。

 しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となりました。禅は外にいるときは下着ですが、家にいるときは禅のみで過ごすこともあったといえます。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られています。

 そして大事なのが冠です。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるようにされていました。

 労働者たちは労働しやすいように短い袍と長い褲(コ:ズボン)を着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げていました。士大夫は冠ですが、庶民の男性は頭巾を被っていました(士大夫も私生活では頭巾を被る)。靴は履かず素足が基本です。

 一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的でした。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがあります。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものでした。

出典:AFP


漢・文化財つづく