シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説 唐 (歴史1)(Tang、618年 - 907年) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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Originally published/produced in China, 18th century. (British Library, Shelfmark Or. 2231), パブリック・ドメイン, リンクによる 唐の基礎を据えた李世民の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎えます。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后とその一族の武氏による専横が始まりました。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により国号を周と改めました。 中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めましたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招きました。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、神龍元年、宰相張柬之に退位を迫られました。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に即き、周は1代15年で滅亡しました。 しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺しました。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策しましたが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められました。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こります。 2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼びます。 盛唐(8世紀初頭 - ) 玄宗 玄宗 Source:Wikimedia Commons User Zhuwq on zh.wikipedia - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる 8世紀前半の唐 高僧玄奘三蔵像と大雁塔 撮影:随行学芸員 Nikon Coolpix S9900 712年(先天元年)、李隆基は睿宗(えいそう) から譲位され即位したのは玄宗です。 注)睿宗(えいそう)[662~716] 中国、唐の第5代および第7代皇帝。在位684~690、および710~712。高宗の第8子。書道に すぐれ、文学や経典の教養もありましたが、政治的には、母の則天武后や韋后(いこう)の意の ままに動かされました。 注)玄宗(げんそう)[685~762] 中国、唐の第6代皇帝。在位712~756。姓は李、名は隆基。諡号(しごう)は明皇帝。「開元の治」 とよばれる太平の世を築いたが、晩年は楊貴妃(ようきひ)に溺れて安史の乱を招きました。 翌年、太平公主を処刑しました。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となります。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及びましたが、751年にトランスオクシアナの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れました。 玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許しました。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こしました。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度です。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称しました。 都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺されました。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位しました。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(太子の葉護ら)によって、763年に乱を平定しました。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれています。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付きました。以降、唐は次第に傾いてゆきます。 軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加しました。各地に節度使が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続きました。 8世紀前半の唐 Source:Wikimedia Commons Orange Wave - Japanese Wikipedia, [1] (File:China map.jpg), CC 表示-継承 3.0, リンクによる 中唐(8世紀半ば - ) 安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失ってゆきました。 これに対し、中興の祖と謳われた憲宗は、中央の禁軍を強化することで中央の命令に服さない節度使を討伐し、朝威を回復させました。しかしその後不老長寿の薬といわれた丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用するようになると、精神に不安定をきたして宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺されました。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と呼ばれる策略を練りましたが失敗し、かえって宦官の専横を招きました。 晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭) 文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めました。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図りました。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれています。 この頃から、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱(ほうくんのらん)に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きました。874年頃から黄巣の乱が起きます。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させると斉を建て、皇帝就位を宣言しました。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去りました。 注)龐勛の乱(ほうくんのらん) 中国唐末期の868年7月に武寧藩鎮の軍人である龐勛(ほうくん)が起こした反乱です。 この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参しました。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗ります。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞って行きました。 河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大しました。 907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡します。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立って行きます。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入ります。 唐の滅亡により、中国は東アジア文明をリードする力を失い、契丹や日本など、唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は独自の発展をしていくこととなりました。 唐の系図 出典:Wikipedia GFDL, リンク 唐・歴史2へつづく |