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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(文化)(1271年~1368年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆元 (文化)

元とマルコポーロ
 
 中国の歴史上興味深いのは唐のあと五大十国、北宋・南宋を経ての「元」です。元は中東、アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国です。
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 そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝です。勿論、中国はそのうちの一部ですが、その創始者はチンギス・カンです。このモンゴル帝国、別名「大元」は首都を大都、いまの北京に定めます。
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 ヴェネッツアの商人マルコポーロは、3枚目の地図にあるようにシルクロードを欧州から中国まで来て滞在したのは主にこの大都(北京)です。彼は有名な「東方見聞録」の中でインド、中国とともにジパングとして日本にも言及し紹介しています。
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 そのマルコポーロは マルコはイタリア語の他に、フランス語、トルコ語、モンゴル語、中国語の4言語に通じていたため、クビライにとって有用な知識や経験を数多く持っていました。マルコの役人登用は不自然ではなく、一時期、モンゴル帝国の役人をつとめ今のミャンマー、ベトナムなどにも滞在しています。

 以下の有名な地図にあるパガンは、いわゆるバガンです。
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マルコポーロの旅の行程
Source:Wikimedia  Commons
Travels_of_Marco_Polo.svg: *Asie.svg: historicair 20:31, 20 November 2006 (UTC)derivative work: Classical geographer (talk)derivative work: Classical geographer (talk) - Travels_of_Marco_Polo.svg, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


なお、4枚目の写真は、ベネツィアのカステロ地区 にあるサン・ロレンツォ・ディ・ヴェネツィア教会です。ここにマルコ・ポーロが埋葬されていますが、詳しくは私達のシルクロードの今を往くの「ヴェネツィアのマルコポーロ1,2,3」をご覧ください。


マルコ・ポーロの伝えたジパング


マルコ・ポーロのポートレイト
Source::Wikimedia Commons
[1], but also many other copies online., パブリック・ドメイン, リンクによる


概略

 マルコ‐ポーロ(Marco Polo) [1254~1324]イタリアの旅行家です。1271年陸路で中国に向かい、元の上都に到着します。フビライに厚遇されて17年間滞在し、各地を旅行することになります。1295年に海路でベネチアに帰国。 のちジェノバとの戦争で捕虜となり、獄中で「東方見聞録」を筆録させ、東洋事情をヨーロッパに紹介しました。

 マルコポーロは商取引を父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロに学びました。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅します。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されますが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となりました。

 1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会に埋葬されています。

 マルコポーロの先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成されました。またクリストファー・コロンブスなど多くの人物に刺激を与えています。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジにも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作されています。


マルコ・ポーロの『東方見聞録』の概要

 マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、以下のように伝えています。

 ジパングは、カタイ(中国大陸)の東の海上1500マイルに位置する独立した島国であり、莫大な金を産出すること、また、王の宮殿は金できており、人々は礼儀正しく穏やかであることや、埋葬の方法は火葬か土葬で、火葬の際には死者の口の中に真珠を置いて弔う風習がある、といった記述がみられます。

 モンゴルのクビライがジパングを征服するため軍を送りましたが、暴風で船団が壊滅した。生き残り、島に取り残された兵士たちは、ジパングの兵士たちが留守にした隙にジパングの都を占領して抵抗しましたが、この国で暮らすことを認める条件で和睦して、ジパングに住み着いたという話です。


マルコ・ポーロ存命中に発刊された『イル・ミリオーネ』の一ページ
『イル・ミリオーネ』 (Il Milione) のミニアチュール
Source:Wikimedia  Commons
- - [1], パブリック・ドメイン, リンクによる



タタールの衣装を纏うマルコ・ポーロ
Source:Wikimedia  Commons
Grevembrock - Scanné de Coureurs des mers, Poivre d'Arvor., パブリック・ドメイン, リンクによる
 

 東方見聞録には「ジパング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその捕虜が身代金を支払えなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに『どうかおいで下さい。わが家でいっしょに会食しましょう』と招待状を発し、かの捕虜を殺して――むろんそれを料理してであるが――皆でその肉を会食するとあります。

 彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのです。との記述がある。この記述は、ジャワ島付近の諸島の解説にもみられます。

 「ジパング」の綴りは『東方見聞録』の写本・刊本によって一定せず、平凡社東洋文庫版(愛宕松男訳)の底本であるアルド・リッチ英訳本では「Chipangu」、フランス国立図書館 fr. 1116 写本(14世紀、イタリア語がかった中世フランス語)では「Cipngu」、グレゴワール本(14世紀、標準フランス語)では「Sypangu」、ゼラダ(英語版)本(1470年頃、ラテン語)では「Çipingu」、ラム―ジオ(英語版)本(1559年、イタリア語)では「Zipangu」となっています。愛宕訳ではリッチ英訳本に基づいて「チパング」と訳しています。


ジパングのモデルになったとされる平泉・中尊寺金色堂覆堂
Source:Wikimedia Commons
竹麦魚(Searobin) - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 マルコ・ポーロが伝え聞いたジパングの話は、平安時代末期に平安京に次ぐ日本第二の都市として栄えた平泉の中尊寺金色堂がモデルになっているという説があります。当時の奥州(現在の東北地方)は莫大な砂金を産出しており、奥州藤原氏によって国際貿易に使用されていました。マルコポーロが元王朝に仕えていた13世紀頃、奥州の豪族安東氏は十三湖畔にあった十三湊経由で独自に中国と交易を行っていたとされ、そこからこの金色堂の話が伝わったものとされています。

モンゴル帝国時代の「ジパング」

 モンゴル帝国時代、大元朝時代の「日本観」についてですが、大元朝後期に中書右丞相トクトらによって編纂された『宋史』「日本伝」では、

「その地東西南北、各々数千里なり。西南は海に至り、東北隅は隔つるに大山を以てす。山外は即ち毛人(蝦夷か)の国なり」とした上で、雍熙元年(984年)に入宋した日本人僧の奝然の伝えたところとして、「天御中主」(天御中主尊)から「彦
瀲尊」(彦波瀲武盧茲草葺不合尊)までの約23世、「神武天皇」から「守平天皇」(円融天皇)までの約64世を列記し、「国中に五経の書および仏経、『白居易集』七十巻あり、並びに中国より得たり」「土は五穀によろしくして麦少なし」「糸蚕を産し、多く絹を織る、(その布地は)薄緻愛すべし」「四時(春夏秋冬)の寒暑は、大いに中国に類す」

と記し、「東の奥洲」で黄金を産出し、対馬のことと思われる「西の別島は白銀を出だし」などと記しています。日本の地理などの情報は全体的にほぼ正確に伝えているが、「犀・象多し」など事実と異なった記述も一部あります。

 また、『集史』「クビライ・カアン紀」によると、東南方、「環海中、女直と高麗(جورجه و كولى Jūrja wa Kūlī)地方沿岸近くに大島があり、それはジマングー(جمنكو‎ Jimangū?)という名前であります。(女直や高麗の地域から)400ファルサング(約 2,000 km)離れている」とあり、女直、高麗などから東南海上の彼方に大元朝に敵対する地域として「日本国」の音写とおぼしき「جمنكو j-m-n-k-w」と呼ばれる大島についての記述があります。


クリストファー・コロンブスが手書きの注釈を加えた『東方見聞録』写
Source:Wikimedia  Commons
Marco Polo with handwritten notes and sketches by Christopher Columbus - "Le Livre des Merveilles", latin edition, Sevilla, Bibliotheca Colombina, in "Marco Polo, Le livre des Merveilles"., パブリック・ドメイン, リンクによる
 

明・歴史つづく