シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説 宋(文化4)(Sòng、960年 - 1279年) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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食 宋の食については陶穀『清異録』・蘇軾の料理を題材に読んだ詩、『東京夢華録』・『夢粱録』などが参考となります。唐宋の間に文化の他の分野では大きな変革が起きましが、料理はそれほど唐と変わりがありません。 現代の中華料理は非常に油っこい印象があるが、これは元代にモンゴルの影響を受けたもので、宋代の料理はむしろあっさりとして日本料理を髣髴とさせるという。 主食 華北は麦などの雑穀類を主とし、華南は米を主としています。米はそのまま炊いて食べるか雑炊の様に煮込む、小麦は粒状に加工して食べます。宋代を通じて次第に互いの間へ浸透して行き、華北の米食・江南の粉食がそれぞれ増加します。小麦の加工品は極めて種類が多いので分類のみ挙げると、蒸す・焼く・揚げる餅類と茹でる麺類に分けられます。 餅類の中で料理名を挙げると、饅頭・角兒(餃子)・包兒(包子)、焼餅(小麦粉を薄く延ばして焼き、中に肉などの餡を包んで食べる)・胡餅(平たく焼き上にゴマと餡を乗せて食べる)など。麺類は包丁で切る切麺、手で延ばす延麺、水に溶いた小麦粉を湯に流し込んで作る発麺に分かれます。麺には細切りの鳥や魚などを乗せ食べていました。 米(とそれ以外の穀物)を粒状にして遣う場合、粒のままで蒸して餅状にする場合は餈(し)といい、粉にしてから餅状にする場合を餌(じ)といいます。 食材 食材は新大陸原産の物を除き、現代の中華料理で使われる材料がこの時代にほぼ出尽くしています。 肉類ではヒツジ・アヒル・ガチョウ・ニワトリ・ウズラ・ハト・ヒナドリ・ウサギなどが料理名として挙げられています。ブタは盛んに食べられましたが、当時のブタ肉は蘇軾の『猪肉頌』に「泥みたいに安く、金持ちは見向きもせず、貧乏人は料理の仕方を知らない。」とあり、安物とされていました。肉料理だけでなく内臓料理なども多いようです。 魚介類ではコイ・エツ・イシモチ・アオウオ・コクレン・ハクレン・ソウギョ・フグ・ヒラウオ・フナ・甲殻類(エビ・カニ)・貝類(ホラガイ・ホタテガイ・アカガイ)・ドジョウ・ウナギなどなど(他にも多数)があります。 野菜・果物もまた数多く利用されており、一部を挙げるとダイコン・ウマゴヤシ・シュンギク・タケノコ他多数。調理方法としてはおひたしや吸い物が多いといえます。果物はウリ・モモ・ナシなどが食べられ、またレイシは高級品として珍重されていました。 調理法もまた非常に多岐にわたります。特筆すべきは魚肉を生で食べる膾(なます)です。膾は元は肉を細切りにして食べるものでしたが、次第に魚が膾と呼ばれるようになり、肉の膾は「生」と呼ばれるようになりました。この時代の膾は南方の料理であり、華北ではあまりありませんでした。 唐代まではニンニクだれが主流であったが、宋代にはユズだれが好まれるようになりました。肉の生(膾)もニンニクだれが主流でした。魚・肉共に生食は元代以降は急速に廃れ、明代になるとほとんど存在しなくなりました。 また水晶膾という料理もありました。これは魚皮から出るゼラチン質を固めて薄切りにする、日本の煮固りのことで、テングサなどを使って固める料理もありました。 建築 『営造法式』 Source:Wikimedia Commons PericlesofAthens - 投稿者自身による作品 (My book), パブリック・ドメイン, リンクによる 現存する建築物については、唐代までに比べ宋代のものは格段に多いと言えます。 唐・五代の中で建築様式は規格化・工業化の道をたどり、北宋代にほぼ完成されたと見られます。 元符三年(1100年)に李明仲が著した『営造法式』には、得られた技術が記されています。これ以降の中国建築では細かな差異はあれどもその本質に付いては違いはありません。 宋代の大規模建築が驚くほどの短期間で完成したのですが、その理由は長さ・径・厚さ等による材料の規格化・接合部などの加工方法の規格化や雇用による専業化の成果であるのは疑い無いところです。職種が細分化され、大木作、石作、瓦作、陶作、竹作、泥作、窯作など、多くの作業に分類されているのも特徴的です。 首都開封城は現在の開封市の地下に埋もれています。建築技術においては城壁の表面を塼(レンガ)で覆ったことが特筆されます。) 虹橋(清明上河図巻部分) Source:Wikiwand Com パブリック・ドメイン, リンク 開封の城内は輸送の為に運河が貫通していましたが、宋代には架橋が興味深い発展を見せました。中でも「虹橋」が有名で、木製の梁の角度を変えながら重なる構造をもち、虹の如く極端なアーチを描いています。 虹橋は幅の狭い河に適した形式であり、『清明上河図』に描かれている虹橋は幅20mほどと推定されています。この形式は支柱が不要なため船の運行に便利です。虹橋は山東が発祥で、徐々に広まり開封には三つの虹橋が架かっていたと言います。 船の運行しない河では木製や石製の普通の橋が架けられました。石製で有名な橋が泉州市に現存する「洛陽橋」(別名万安橋)で、この橋は蔡襄が泉州郡守の時に建設を提唱し、5年の歳月をかけ建設されました。橋が架かる洛陽江は干満の差が激しく、水流の圧力を逸らすため基礎部分は小船の形をしています。全長は540mにもなります。 元・歴史へつづく |