シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説 宋(文化2)(Sòng、960年 - 1279年) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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Not stated by uploader, パブリック・ドメイン, リンクによる ウィキソースにそれぞれの原文がいくつかあります。楊億・林逋・寇準・欧陽脩・梅堯臣・蘇舜欽・王安石・蘇軾・黄庭堅・ 陸游・楊万里・范成大・張先・柳永・周邦彦・李清照 詩 五代の詩は繊細な詩風を特徴としますが、詞が隆盛した一方で、詩は概ね低調でした。 北宋・真宗期の高級官僚の間では西崑体と呼ばれる詩風が流行した。西崑体の代表としては楊億・銭惟演・劉筠といった名前が挙がっています。 宋初には他に独自の詩風を持つ詩人も居り、まとめて晩唐派と呼ばれますが、詩風は同じではありません。魏野・林逋・寇準といった名前が挙があります。 仁宗期に入り、欧陽脩は韓愈に心を寄せて古文復興運動に取り組み、詩に於いても韓愈を手本、梅尭臣・蘇舜欽を同士に新しい詩の流れを生み出しました。 神宗期に活躍したのが王安石であり、宋代最高の詩人である蘇軾です。王安石には政治に関する詩が多く、表現に於いては故事・古詩を盛り込みつつも端正な詩風です。 当代一の文人である蘇軾の周りには多くの才能ある文人が集まり、黄庭堅・張耒・晁補之・秦観の四人は蘇門四学士と称されましたが、中でも黄庭堅が文名・後世に最も大きい影響を与えました。黄庭堅の詩風は多くの追従者を生み、後に江西詩派と呼ぶ流れを生みました。 「漢武」楊億 「画眉鳥(ガビチョウ)」欧陽脩 「鐘山即事」王安石 「春夜」蘇軾 華北を失い江南へ押し篭められた激動の時代を代表するのが、陳与義・曾幾・呂本中の三人です。時代を反映し亡国の悲憤を詠んだ歌が多いと言えます。杜甫を尊敬した陳与義は杜甫と似た境遇に遭った事で詩も杜甫に近づいたと評されています。 孝宗の治世に入り、ある程度の安定を得た南宋で再び詩が全盛期を迎えます。代表的なのは范成大・楊万里、そして南宋最高の詩人である陸游です。 陸游は29歳の時に解試(科挙の一次試験)を受けて見事1位で合格しましたが、そのときの2位が時の宰相秦檜の孫である秦塤であったために省試(二次試験)では秦檜により落第させられたといいます。結局86年という長寿を保ち、現存する詩は9000に及んでいます。 孝宗の治世末から平和な時代が続き、詩を詠む人間の数は大きく増加しました。代表が永嘉四霊と江湖派であり、永嘉四霊とは徐照・徐璣・翁巻・趙師秀の四人です。 南宋も末に近づき、モンゴルの攻撃が日に日に激化する中で、激情を詠んだのが文天祥です。文天詳の詩としては「正気の歌」が有名で、その亡国を悲しむ詩は後世の愛国者に深い感銘を与えました。 南宋滅亡後、元の時代になっても「宋の遺民」として過ごす人々がおり、彼らは在りし日の宋を懐かしんで歌に詠んだのです。代表としては汪元量・謝翺・鄭思肖らの名が挙がります。 「墨梅」陳与義 「黄州」陸游 「約客」趙師秀 宋・文化3へつづく |