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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(文化)(1368年 - 1644年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆明 文化(中国)

文化

王陽明


 洪武帝により文人に対しての大弾圧が行われ、明初は知識層が打撃を被りました。しかし同時にその国子監をはじめと州県に至るまで全国に国立学校を設立する政策、北は万里の長城から南は広東に至るまで全国で郷試を実施して科挙による人材登用の機会を広げる政策は文化の全国化をもたらす意味も有していました。

 永楽帝の命により『四書大全』『五経大全』『性理大全』が撰され、全国の学校に科挙の教科書として配布された点も同様です。三田村泰助はこれを国民文化の成立であるとして評しています。一般民衆の間に文化が広まった由縁はそれです。それまでの文人=官僚だった図式が崩れ多くの大衆文化が生まれています。しかしその一方でそれまで高尚とされていた漢詩・歴史の分野ではあまり見るべきものがありません。

思想

 洪武帝は劉基ら朱子学者を重用し、永楽帝の教科書政策もあって、朱子学は国定学問としての地位を保持していました。しかし、朱子以降の朱子学にはあまり思想的な進展は見られないとの指摘があります。これについて国定になり、思想が固定化されたせいたとも、朱子による学問の体系化があまりにも完璧なものであったためにそれ以後の朱子に到底及ばない学者にとっては進展が無いのだ、とも言われています。

 しかし、明代の思想において最も特筆すべきはなんと言っても王陽明による陽明学(中国では王学と呼ばれています。陽明学は日本において付けられた名です)の成立です。陽明学では心即理・知行合一・致良知を唱え、明代を通して思想的発展を遂げます。 明代後期、陽明学的土壌の中で三教一致説が隆盛し、中国思想界はかつての様な進展を見せます。


王陽明
Source:Wikimedia Commons
不明 - http://www.hanfu.hk/forum/viewthread.php?tid=5508, パブリック・ドメイン, リンクによる


 その一方で、1582年にイエズス会員マテオ・リッチらによってキリスト教カトリックがもたらされます。明政府高官の中には、キリスト教に興味を示した者も多数存在しましたが、それはマテオ・リッチの布教態度に負うところが大きいといえます。明人では、代表的なキリスト教信者として徐光啓の名を挙げることができます。また、マテオ・リッチは坤輿万国全図(中国を中心とした世界地図)を作成しました。


『幾何原本』の挿絵、マテオ・リッチと徐光啓
Source:Wikimedia Commons
Anthanasius Kircher, uploaded by TheColonel - Gisela Gottschalk - Chinas große Kaiser, パブリック・ドメイン, リンクによる



『坤輿万国全図』
Source:Wikimedia Commons
w:Matteo Ricci - This map is available from the United States Library of Congress's Geography & Map Divisionunder the digital ID g3200.ex000006Zb.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, リンクによる


文学

 前述のようにこの時代には漢詩の分野では見るべきものが少ないといえます。明初には古文辞運動が起こります。宋詩を批判して漢代の文(歴史)・唐代の漢詩がもてはやされるようになり、『唐詩選』が刊行されています。しかしこの時代の詩文はどうかと言うと多くが単なる懐古趣味的な模倣に堕した感があります。

 その中で歴史の分野で特筆するべきが李卓吾です。陽明学左派の思想を元にそれまでの朱子学的な歴史観を引っくり返した過激な文章を次々と発表して、明政府に危険視されて捕縛され、最後は獄死した人物です。彼の思想は後世に影響を与え五・四運動に於いて開放思想として評価されました。

 その一方で民間における小説の分野では『金瓶梅』など数々の名作が誕生しました。『三国志演義』・『水滸伝』・『西遊記』はこの時期に完成したとされます。また戯曲の分野も発展し、「牡丹亭還魂記(ぼたんていかんこんき)」などの名作が作られています。

 また永楽帝の命により百科事典『永楽大典』が編纂されて、古今の書物の中から重要と思われる文章が抜き出されて収録されました。

美術


具区林屋図、元末明初、王蒙、台北国立故宮博物院
Source:Wikimedia Commons
王蒙 - The Yorck Project (2002年) 10.000 Meisterwerke der Malerei (DVD-ROM), distributed by DIRECTMEDIA Publishing GmbH. ISBN: 3936122202., パブリック・ドメイン, リンクによる


 元末期、戦乱に明け暮れる他の地方に比べて江南蘇州は張士誠政権の下で繁栄を謳歌していました。ここでは毎日のように文学サロンにおいて漢詩の大会が開かれたり、著名な画人達が腕を競っていました。この中でも黄公望(こうこうぼう)・呉鎮(ごちん)・ 倪瓚(げいさん)・王蒙(おうもう)の4人の優れた画家を「元末四大家」と呼んでいます。

 注)元末四大家(げんまつしたいか)
  中国,元末に活躍した文人画家の4人の大家で,黄公望,倪 瓚 (げいさん) ,呉鎮,王蒙
  のこと。元の四大家の内容は編者により多少異なるため,明の何良俊 (かりょうしゅん) の
  所論に従い,時代を限って通常,元末四大家と呼ぶ。元時代の特色である市民文化の発
  展を  背景として,多くは在野の画家 (王蒙を除く) として絵画活動を行なった。4人の画風
  はそれぞれ異なり様式,描写形式の包括範囲は広く,明,清以降の南宗画,文人画の典型
  となった。

 この流れを引き継いだのが呉派と呼ばれる文人画(民間画壇による絵画)の流派です。この派の代表としては沈周と文徴明がいます。

 陶磁器の分野は明代に大きく隆盛し、元から引き継いだ染付や新しい赤絵の技法が開発され、景徳鎮の窯からは大量の製品が生み出され、国内だけは無く海外にも輸出されました。特に万暦期の『万暦赤絵』は名品中の名品とされ、現在でも好事家の垂涎の的となっています。ただしこの時期には陶磁器は技術であって美術ではないと見なされていたようです。

 永楽帝期には後の清でも皇宮として使われる紫禁城が完成し、現在は故宮博物院として使われており、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されています。

明時代の巨大建築(紫禁城)

 
出典:「チャイナネット」2008年11月22日







 北京市の中心部にある紫禁城は、明・清という中国最後の二つの封建王朝の皇居であります。

 1420年に竣工した頃から、1911年に最後の皇帝が権力の座を下りるまで、500年の間に24人の皇帝がここで暮し政務をつかさどりました。

 故宮の建築構造や規模、色彩、装飾、装飾品などはみんな封建王朝の儀礼や序列を表わし、皇帝のこの上ない権力と厳しい身分制度を示すものです。故宮の建築物は主に木構造で、その宮殿は火災の被害を受け、何度も修築されましたが、本来の構造は大体残されています。

 現在では9000間の部屋があり、世界に現存する最も大きな、最も完ぺきな形で保存された古代の宮殿群となっています。


太和殿



中和殿



保和殿

 巨大な城は「外朝」と「内庭」に分かれています。外朝は南側にあり、中軸線に位置する太和殿、中和殿と保和殿を中心とし、皇帝が重要な式典を行い、大臣たちを呼び寄せて会見し、権力を行使する所です。太和殿は高さ35.5メートル、明・清両代においては北京で最も高い建築物で、皇帝のこの上もない権力を象徴するものでした。

 新しい皇帝の即位、皇帝の成婚の式、皇后の冊封、科挙制度の最高の試験、さらに毎年の元旦、冬至、皇帝の生誕の日に百官が皇帝に謁見し食事を賜われるなどの重要な儀式はすべてここでとり行われました。


乾清宮


坤寧宮

北側にある内庭は乾清宮、交泰殿、坤寧宮を中心とし、皇帝、皇后と妃らが住み、日常に政務をたずさわる所です。故宮はその建築技術によって国内外に知られ、その建築物群は雄大なスケールを誇り、華麗で堂々としており、どの装飾をとってみても人々に思いを巡らせるものがあります。

 故宮にはさらに商、周の時代から清の末期までの百万点にのぼる貴重な文物が収蔵されており、観光客を引き付けている。1987年にユネスコによって『世界の文化遺産』に登録されました。

「チャイナネット」2008年11月22日


明・文化財1つづく