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Now on the Silk Road   中国歴史・文化概説

匈奴単于国(歴史2)
(紀元前4世紀頃~5世紀

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は匈奴単于国の歴史2です。

匈奴単于国(歴史2)

構成諸族の離反

 壺衍鞮単于(在位:前85年 - 前68年)の代になり、東胡の生き残りで匈奴に臣従していた烏桓族が、歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に敗れた時の報復をしました。壺衍鞮単于は激怒し、2万騎を発して烏桓を撃ちました。

 注)烏桓(うがん)について
  烏丸とも記す。東部モンゴリアにいた古代遊牧民族。東胡の後身,主と
  して漢代に活躍。3世紀初め魏に征服され,その勢力も倒壊。
  出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

 漢の大将軍の霍光はこの情報を得ると、中郎将の范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせて遼東郡から出陣させました。范明友は匈奴の後を追って攻撃をかけましたが、范明友の軍が到着したときには、匈奴は引き揚げていました。そこで、范明友は烏桓族が力を失っているのに乗じ攻撃をかけ、6千余りの首級を上げ、3人の王の首をとって帰還しました。

 壺衍鞮単于はこれを恐れて漢への出兵を控え、西の烏孫へ攻撃を掛け車師(車延、悪師)の地を取りました。しかし、烏孫は漢との同盟国であったため、救援要請を受けた漢軍は五将軍を派遣して匈奴に攻撃を仕掛けました。匈奴の被害は甚大で、烏孫を深く怨むこととなります。

 その冬、壺衍鞮単于は烏孫を報復攻撃しました。しかし、その帰りに大雪にあい多くの人民と畜産が凍死し、これに乗じた傘下部族の北の丁令、東の烏桓、西の烏孫から攻撃され、多くの兵と家畜を失いました。これにより匈奴に従っていた周辺諸国も離反し、匈奴は大きく弱体化しました。

匈奴の内紛と呼韓邪単于

 漢に対抗できなくなった匈奴は何度か漢に和親を求め、握衍朐鞮単于(在位:前60年 - 前58年)の代にもその弟を漢に入朝させました。しかし一方で、握衍朐鞮単于の暴虐殺伐のせいで匈奴内で内紛が起き、先代の虚閭権渠単于の子である呼韓邪単于(在位:前58年 - 前31年)が立てられ、握衍朐鞮単于は自殺に追い込まれました。

 注)握衍朐鞮単于とは
  握衍朐鞮 単于(あくえんくてい ぜんう  紀元前58年)は、中国前漢時代
  の匈奴の単于。烏維単于の来孫(玄孫の子)。握衍朐鞮単于というのは
  単于号で、姓は攣鞮氏、名は屠耆堂(ときとう)という。
  出典:Wikipedia

 これ以降、匈奴国内が分裂し、一時期は5人の単于が並立するまでとなり、匈奴の内乱時代を迎えます。やがてこれらは呼韓邪単于によって集束されますが、今度は呼韓邪単于の兄である郅支単于が現れ、兄弟が東西に分かれて対立することとなります。

 呼韓邪単于は内部を治めるため漢に入朝し、称臣して漢と好を結びました。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせました。漢と手を組んだ呼韓邪単于を恐れた郅支単于は康居のもとに身を寄せましたが、漢の陳湯と甘延寿によって攻め滅ぼされました。

 こうしてふたたび匈奴を統一した呼韓邪単于は漢との関係を崩さず、その子たちもそれを守り、しばらく漢と匈奴の間に平和がもたらされました。

王莽の登場


1世紀、匈奴とその周辺国
Source:Wikimedia Commons
英語版ウィキペディアTalessmanさん, CC 表示 3.0, リンクによる


 烏珠留若鞮単于(在位:前8年 - 13年)の時代、漢では新都侯の王莽が政権を掌握し、事実上の支配者となっていました。この頃から漢の匈奴に対する制限が厳しくなり、他国からの人質、投降者、亡命者などの受け容れを禁止する4カ条を突き付けられました。呼韓邪単于以来、漢の保護下に入っていた匈奴はそれを認めるしかありませんでした。

 始建国元年(9年)、王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国しました。王莽は五威将の王駿らを匈奴へ派遣し、単于が持っている玉璽を玉章と取り換えさせました。その後、烏珠留若鞮単于はもとの玉璽がほしいと言いましたが、すでに砕かれており、戻ってくることはありませんでした。

 王莽による一連の政策に不満を感じた烏珠留若鞮単于は翌年(10年)、西域都護に殺された車師後王須置離の兄である狐蘭支が民衆2千余人を率い、国を挙げて匈奴に亡命した際、条約を無視してこれを受け入れました。そして狐蘭支は匈奴と共に新朝へ入寇し、車師を撃って西域都護と司馬に怪我を負わせました。時に戊己校尉史の陳良らは西域の反乱を見て戊己校尉の刁護を殺し、匈奴に投降しました。

王莽の単于冊立

 王莽は匈奴で15人の単于を分立させようと考え、呼韓邪単于の諸子を招き寄せました。やって来たのは右犁汗王の咸と、その子の登と助の3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、助を拝して順単于としました。この事を聞いた烏珠留若鞮単于はついに激怒し、左骨都侯で右伊秩訾王の呼盧訾、左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中に侵入して大いに吏民を殺させました。ここにおいて、呼韓邪単于以来続いた中国との和平は決裂したのです。

 この後、匈奴はしばしば新の辺境に侵入し、殺略を行うようになりました。王莽の蛮族視政策は西域にも及んだため、西域諸国は中国との関係を絶って、匈奴に従属する道を選びましだ。

新の滅亡と後漢の成立

 始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于は即位21年で死去し、王莽によって立てられた孝単于の咸が後を継いで烏累若鞮単于(在位:13年 - 18年)となりました。烏累若鞮単于は初め、新朝と和親を結ぼうとしましたが、長安にいるはずの子の登が王莽によって殺されていたことを知り、激怒して侵入略奪を絶えず行うようになりました。

 そこで王莽は王歙に命じて登および諸貴人従者の喪を奉じて塞下に至らせると、匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させました。こうして、烏累若鞮単于は王莽の金幣を貪る一方、寇盗も従来通り行ったのです。

 地皇4年(23年)9月、更始軍が長安を攻め、王莽を殺害、新朝が滅亡しました。更始将軍の劉玄は皇帝に即位し(更始帝)、漢を復興します(更始朝)。

 匈奴では呼都而尸道皋若鞮単于(在位:18年 - 46年)が即位していましたが、新末において匈奴がたびたび辺境を荒らしていたため更始朝が新朝を倒すことができたと言い始め、更始朝に対して傲慢な態度をとりました。

 しかし、そうしているうちに赤眉軍が長安を攻撃して劉玄を殺害、その赤眉軍も光武帝によって倒されて後漢が成立しました。呼都而尸道皋若鞮単于は後漢に対しても傲慢な態度を取り、遂には自分を冒頓単于になぞらえるようになりました。

匈奴の南北分裂

 匈奴による侵入・略奪は日に日に激しくなりましたが、蒲奴(在位:46年 - ?年)が単于に即位すると、匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞われました。単于蒲奴は後漢がこの疲弊に乗じて攻めてくることを恐れ、使者を漁陽まで派遣して和親を求めました。

 時に右薁鞬日逐王[20]の比(ひ)は南辺八部の大人(たいじん:部族長)たちに推戴され、呼韓邪単于と称して(本当の単于号は醢落尸逐鞮単于)南匈奴を建国し、匈奴から独立するとともに後漢を味方につけました(これに対し、もとの匈奴を北匈奴と呼びます)。南匈奴は北匈奴の単于庭(本拠地)を攻撃し、単于蒲奴を敗走させました。これにより単于蒲奴の権威は失墜し、その配下の多くが南匈奴へ流れて行きました。

北匈奴の滅亡


87年、匈奴と漢(汉)
Source:Wikimedia Commons
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 その後、北匈奴はしばしば中国の辺境を荒らしては後漢と南匈奴に討たれたので、次第に衰退して行きました。章和元年(87年)、東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴の左地(東部)に入って北匈奴を大破させ、優留単于を斬り殺しました。さらに飢饉・蝗害にもみまわされ、多くの者が南匈奴へ流れて行きました。

 永元元年(89年)、南匈奴の休蘭尸逐侯鞮単于(在位:88年 - 93年)が北匈奴討伐を願い出たので、後漢は征西大将軍の耿秉と車騎将軍の竇憲とともに北匈奴を討伐させ、北単于を稽落山の戦いで大破しました。翌年(90年)、休蘭尸逐侯鞮単于は使匈奴中郎将の耿譚とともに北単于を襲撃し、その翌年(91年)にも右校尉の耿夔の遠征で北単于を敗走させたので、遂に北匈奴は行方知れずとなり、中華圏から姿を消しました(その後の北匈奴は康居の地に逃れて悦般となります。)。

 また、18世紀以降から、4世紀にヨーロッパを席巻したフン族と同一視する説が存在しますが(フン族#フン=匈奴説)、未だ決定的な見解がでていません。

南匈奴


紀元前2世紀、匈奴とその周辺国
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トムル - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 残された南匈奴は後漢に服属して辺境の守備に当たりました。しかし、次第に配下の統制が利かなくなり、南単于の権威が弱くなってゆきました。時に匈奴のいなくなったモンゴル高原では東の鮮卑が台頭しており、その指導者である檀石槐は周辺諸族を次々と侵略していき、中国の北辺を脅かしました。

 屠特若尸逐就単于(在位:172年 - 177年)は後漢の護烏桓校尉や破鮮卑中郎将、使匈奴中郎将らとともに鮮卑に対抗したがまったく相手にならず、けっきょく檀石槐の存命中は何もすることができませんでした。

 その後の中国は後漢末期の動乱期(いわゆる三国時代)に突入し、黄巾の乱やその他の戦乱に南匈奴も駆り出されることとなりました。そんな中、南匈奴内部で内紛が起き、単于於夫羅(在位:188年 - 195年)は南匈奴本国から放逐され、流浪の末に時の権力者である曹操のもとに身を置きました。

 呼廚泉(在位:195年 - ?年)の代になって南単于は鄴に抑留され、五分割された南匈奴本国は右賢王の去卑がまとめることになりました。以降、南単于は魏代・晋代において中国王朝の庇護のもと、存続することができましたが、単于の位はすでに名目上のものとなっており、実際の権威は左賢王に移っていました。

 やがて西晋が八王の乱で疲弊すると、於夫羅の孫にあたる劉淵は大単于と号して西晋から独立、国号を漢(のちの前趙)と定めました。その後、漢は西晋を滅ぼし(永嘉の乱)、時代は五胡十六国時代へと突入します。

五胡十六国時代


西晋時代の北方遊牧民族の領域
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 漢の劉淵(在位:304年 - 310年)はやがて中国風君主号である皇帝を名乗るようになり、単于号は異民族に対する単なる称号となりました。劉聡(在位:310年 - 318年)の代になって西晋を滅亡させ、劉曜(在位:318年 - 329年)の代に国号を趙(前趙)に改めました。

 これまで着々と中原を制覇してきた前趙でしたが、その政権は不安定であり、何度も君主の廃立が行われました。そうしているうちに配下の石勒が襄国で独立して後趙を建国し、329年には前趙を滅ぼしてしまいます。しかし、その後趙も後継争いが起きて漢人の冉閔によって国を奪われました(冉魏)。

 一方、独孤部や鉄弗部といった匈奴系の部族は鮮卑拓跋部の建国した代国のもとにあり、独孤部は代国に臣従していたものの、鉄弗部にいたっては叛服を繰り返していました。376年、前秦の苻堅は代国を滅ぼしてその地を東西に分け、東を独孤部の劉庫仁に、西を鉄弗部の劉衛辰に統治させました。やがて拓跋珪が北魏を建国すると、独孤部はそれに附きましたが、鉄弗部は対抗して赫連勃勃の代に夏を建国しました。その後、夏は北魏と争いましたが、吐谷渾の寝返りもあって431年に滅びましだ。

北魏以降

 古くから北魏(拓跋氏)に仕えていた独孤部は道武帝(在位:398年 - 409年)の「諸部解散」もあって部族として存在しなくなりましたが、北魏内で重要な役職に就くようになり、北朝・隋唐時代における名門貴族、劉氏、独孤氏となって行きました。


匈奴単于国・文化つづく