シルクロードの今を征く Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説 夏(歴史) (Xià、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃) 青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda 共編 掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁 |
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紀元前2500年)・下流域の良渚文化(紀元前3300年 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化(紀元前2100年頃 - 紀元前1500年頃)が移植されています。 後継民族・国家 夏の後継といわれ、またそのように自称した民族に以下があります。 禹 河南省禹州市は紀元前1世紀になっても夏人の町として有名でした。『史記・貨殖列伝』では、潁川(えいせん)と南陽は夏人の居。潁川は秦末期に、一部の民を南陽に移しました。南陽は西は武関に通じ、東南は漢江、長江、淮河を受けます。宛(えん・南陽市)は亦都会で、その風俗は奇矯、職業は商人が多く、彼等は任侠で潁川と交通するので、夏人と呼ばれていると記されています。 杞国 杞県に在ったとされます。 越国 福建省、広東省、広西省からベトナム北部にかけて活動していた越人は夏人の末裔を自称していました。また禹の墓があると伝承される稽山は越人の聖地でもあります。紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散しました。 百越 倭 倭人・倭族は百越の一族ともされ、また越人の一部は倭国に渡来したとされます(下記「#倭国との関連」参照)。 匈奴 『史記』『漢書』「匈奴列伝」に依れば、匈奴の先祖は夏后氏であり、この夏后氏は夏王朝の一族です。名を淳維といい、夏后淳維といいました。 夏の帝の一覧 出典:Wikipedia 文字 殷の甲骨文字の様な文字体系を所持していたかは未だ不明ですが、考古学者の徐中舒が、巴蜀文字を夏文字の名残りなのではないかとする見解を出し、更に徐朝龍は著書『長江文明の発見』に於いて以下の様なシナリオ・仮説を提出しています。 良渚文化は稲作都市文明を形成していました。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊します。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興しました。この変遷過程で、良渚文化に誕生していた図像文字(絵文字グラフィティ)は様々な習合を経て北方の黄河中流域に持ち込まれ、一度は夏王朝の文字となり、そこで甲骨文字と接触しました。 やがて夏王朝は支配下に在った東夷后羿(こうげい)部族に倒されます。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ、後四川盆地に移住し、三星堆文化(古蜀国)を築きました。のち良渚文字は、巴族や蜀族によって加工され、巴蜀文字となりました。 名称・呼称 「夏」という王朝名は後世の呼称である。 漢字学者の藤堂明保は、「夏」の字を甲骨文字・金文からの形成の変遷を分析した上で、「大きい人(鎧をつけた大柄なひと)」という美称ではないかとの説を提出しています。 周・歴史へつづく |