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Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

五胡十六国(歴史3)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は五胡十六国の歴史3です。

淝水の戦い


前秦(水色)と東晋(黄色)の領域
Source:wikimedia Commons
Ian Kiu - self-made, drawn after:"The Sixteen States and the Empire of ther Eastern Tsin Dynasty, 317-420 AD" Albert Herrmann (1935) History and Commercial Atlas of China. Harvard University Press.Image:前秦 東晉.PNG by User:小為., CC 表示 3.0, リンクによる


 同じ頃、後趙の支配力が及ばなくなった陝西地方では氐族の苻洪が秦王を名乗り、息子の苻健が長安に入って秦皇帝に即位しました。彼らの建てた国は前秦と呼ばれます。

 一連の混乱に乗じて、東晋の将軍桓温は成漢を滅亡させて四川を東晋の版図に組み入れ、354年に北伐を行い前秦を攻めるが撃退されました。桓温は一旦兵を引き上げますが、356年に再び北伐を行い、洛陽を占領しました。

 前燕では、慕容恪の指揮の下後趙や段部などの残党を平定し、河南にもその勢力を拡大していました。

 360年に慕容儁が死去すると息子の慕容暐が継ぎましだが、若年であったため叔父の慕容恪が実質的な指導者となりました。慕容恪は前燕の勢力をさらに拡大、364年8月には東晋から洛陽を奪い、366年までに淮北をほぼ制圧し、前燕は全盛期を迎えました。

 360年中頃には前燕が華北の東を前秦が西を領有して、前趙・後趙の時と同じように東西での睨み合いの状態となっていまた。

 苻健の後を継いだ苻生は、横暴で周囲の不満を買い、従弟の苻堅によるクーデターで殺害されました。苻堅は優れた人物で、漢人の王猛を登用してその献言に従い、370年には慕容恪の病死により揺らいでいた前燕を滅ぼし、華北最大の勢力となりました。

 苻堅は、371年には甘粛に拠っていた仇池を、376年には山西北部に割拠する鮮卑拓跋部の代と前涼を滅ぼして華北を統一しました。更に朝鮮半島の高句麗と新羅を朝貢国とし、勢力は大きく奮いました。

 更に苻堅は、中国の統一を目指して東晋遠征を計画します。王猛は375年に死去しており、臨終の際に東晋への遠征は止めるよう遺言しました。しかし苻堅はこれを聞き入れず、遠征を決行します。

 383年、苻堅は100万と号する親征軍を南下させました。これに対する東晋軍は謝安を大都督とした8万で迎え撃ちました。両軍は淝水(現在の安徽省寿県)を挟んで対峙します。前秦軍は一旦、兵を後退させ、東晋軍が河を渡った所で攻撃しようとしました。しかし後退させた事で陣形が崩れ、そこを東晋軍に突かれて大混乱に陥り、前秦軍は大敗しました(これを淝水の戦いいます)。

 前秦軍は様々な民族の混成であり、先の戦いで東晋から捕虜となっていた将軍なども起用されていました。苻堅は残軍を纏めて帰還しますが、これを見た配下の諸部族は反旗を翻しました。

 旧前燕の領土には後燕が、山西では代と西燕、陝西には後秦・西秦が、甘粛には後涼が建国されました。更にその後の混乱から陝西に夏、甘粛に北涼・南涼・西涼、山東に南燕などが乱立し、華北は再び騒乱状態となったのです。

北魏の華北統一


北魏と宋
Source:wikimedia Commons
俊武, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


北魏と宋

 これらの国々が乱立する中で、前燕の慕容儁の弟の慕容垂によって建てられた後燕と羌の族長姚萇によって建てられた後秦が次第に強大となります。

 394年に後燕は西燕を、同年に後秦は前秦をそれぞれ滅ぼして領土を拡大し、両者の睨み合いとなるかと見えました。しかし、から改称した鮮卑拓跋部による北魏と、後秦から独立して建国した匈奴の赫連勃勃の夏が次第に強大となります。

 後燕は、395年に北魏に対して遠征を行ったが大敗しました(参合陂の戦い)。翌年に慕容垂が死去し、398年には慕容垂の弟の慕容徳が南燕に離反して、北魏に領土の大半を奪われるなど、後燕は一気に頽勢となりました。

 407年、漢人の馮跋が高句麗の王族出身の慕容雲(元の名は高雲)を擁立したことで後燕が滅亡しまする。馮跋の政権は北燕と史称されますが、保持した領地は遼東と遼西のみの狭い地域です。

 後秦は、400年前後の最盛期の姚興の代に周辺国(西秦、南涼、北涼、西涼、後蜀)を一時的に従えました。しかし402年に北魏に大敗し(柴壁の戦い)、また西秦や後涼との抗争を続けていた407年に、配下の赫連勃勃が自立して夏を建て、騎馬を活かした攻撃を仕掛けて後秦の国力を疲弊させました。

 最終的に後秦は417年に東晋の劉裕(南朝宋の創始者)が率いる遠征軍により滅ぼされました。劉裕は南燕も410年に滅ぼしており、これらの軍功を以って420年に東晋から禅譲を受けて宋を建てました。

 417年、劉裕が長安(後秦の首都)から東晋に引き上げると、赫連勃勃は長安を奪取し、夏は華北において北魏と並び立ちました。赫連勃勃は425年に死去し、後継である子の赫連昌は427年に北魏によって夏の首都・統万城を落とされ、翌年に捕虜となります。次に即位した弟の赫連定も北魏に大敗し、431年に西秦を滅ぼすも吐谷渾によって北魏に送還され、処刑されました。

 北魏は436年に北燕を滅ぼし、439年には甘粛地方を統一していた北涼を滅ぼして華北を統一しました。これを以って五胡十六国時代は終わり、南北朝時代の始まりとなります。

<参考>代について

 代(だい)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国です。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続きました。上図の左端のピンク色の上半分です。その後、394年~440年は北魏となっています。


Sour代(だい)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国
ce:wikimedia Commons
トムル - File:Whole world - land and oceans.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる


五胡十六国・文化つづく