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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road  中国歴史・文化概説

(文化)(1644年~1912年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆清(文化)

 後金から清成立時にはモンゴル文字から満洲文字が作られ、歴史記録の編纂が始まりました。この初期の記録は後に20世紀初に発見され、「満文老檔」と名付けられています。

 順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な文人でもありました。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がりました。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために文字の獄と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっています。 初期清朝は、満州旗人達の教育に有用な漢籍を「官書」として満州語訳して読ませたり、旗人達に漢字の習得を義務化しました。

 清初期ではイエズス会の宣教師等を通じて数理天文学、数学、測量技術、医学、解剖学等の西洋科学の導入が進みました。使用言語に関してはフランス語等の西洋諸語から漢語文言文、西洋諸語から満洲語に訳されたものが漢語文言文へという流れが存在しました。フェルディナント・フェルビーストは満洲語を習得し康熙帝に進講していました。


康熙字典
Source:Wikimedia Commons
Mosesofmason, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



康熙字典(2005年の復刻版)
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WikiCantona - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



音楽家
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不明 - "When We Were Strolling Players in the East" by Louise Jordan Miln, 1894, パブリック・ドメイン, リンクによる



 「御製五体清文鑑」の一部。上から満洲語、チベット語、チベット語の発音を満洲文字で示したもの、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、ウイグル語の発音を満洲文字で示したもの、漢文
上記三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味がありました。

Source:Wikimedia Commons
User:Shibo77
- 《御製五體清文鑑》, パブリック・ドメイン, リンクによる


一方で満洲語を習得している満洲八旗が減少している事を危惧し、特に乾隆帝の勅命により1787-94年(乾隆52-59)頃に満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語(アラビア文字表記)、漢語に対応した辞書の「御製五体清文鑑」 (han-i araha sunja hacin-i hergen kamciha manju gisun-i buleku bithe) が編纂された。

 清の文化は越南に多大な影響を与えてます。

思想

 厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれました。

 これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものです。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている(と考えられる)朱子学や陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなります。そして最も重視されたのが漢代のものです。

 考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う『古文尚書』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになります。

 また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとしました。この分野では『二十二史箚記』の著者趙翼が有名です。

 しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになりました。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしましたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判があります。

 日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれませんが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強いのです。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになります。

 注)公羊学(くようがく)
   清の文化の中で出現し、特に清末に盛んになた儒学の学派の一つ。 孔子が魯
  国の歴史を編纂したという『春秋』は簡単な編年体で周王たちの事績を述べてい
  るので、その文面から孔子の言外の主張を読み取ろう解釈(「伝」は解釈の意味)
  がいくつも現れた。 その中の重要な解釈が、公羊伝、穀梁伝、左氏伝の三つで
  あった。(出典:世界史の窓)

  中国,漢代の儒学の中心であり,『春秋三伝』 (『公羊伝』『穀梁伝』『左氏
  伝』) のうち,『公羊伝』を,『春秋』の経文の正統的解釈と認める学派。テキ
  ストは今文 (きんぶん。漢代に通用した文字で書かれたもの) を用いる。董仲舒
  はその大成者。公羊学は孔子を素王,『春秋』を革命の書とみるので,漢が周に
  代って中国を治める理論的根拠となった。三国時代以後衰えたが,清末に康有為
  らによって取上げられ,戊戌変法を導き出す思想となった。
   (出典:ブリタニカ国際大百科事典)


中国文学


紅楼夢の挿絵
Source:Wikimedia Commons
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清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛び抜けた天才・名作は無い。

一方、明代から引き継いで小説・戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。

現代中国で普通話のもととなる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と満洲語の語彙が混じり合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。

美術
絵画の分野ではイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)によってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。

陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。

瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。


清・文財1へつづく