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シルクロードの今を征く


Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(歴史)(Sòng、960年 - 1279年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆宋 (歴史)


出典:中国歴史地図庫

概要


宋の位置
Source:Wikimedia Commns
LiDaobing Yu Ninjie - Tan Qixiang (ed.), Zhongguo lishi ditu (中国历史地图集; 1982). Released under the GNU FDL., CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つです。

 趙匡胤(ちょう きょういん)が五代最後の後周から禅譲を受けて建国しました。国号は宋ですが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれます。

 国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによります。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けています。北宋、南宋もともに、宋、宋朝、祖宋朝です。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安でした。

 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがありますが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しいといえます。

歴史

北宋



北宋の位置 首都へ東京開封
Source:Wikimedia Commns
GFDL, リンク

11世紀の北宋


北宋の首都、開封市
出典:百度百科


北宋時代の開封。三重の守り新城(外城)・旧城(裏城)・宮城(大内)に守られている。
王宮のあった場所は、現在は龍亭公園と呼ばれている。
Source:Wikimedia Commns
SY - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる


 後周の殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤が後周最後の皇帝から禅譲を受けて建国しました。趙匡胤は中国の分裂状態の終止を目指しますが、志半ばで急死。弟の趙匡義(太宗・趙光義)が跡を襲って中国の統一を果たし、科挙制度の充実を図りました。科挙制度は太宗の子真宗の代で完成したといわれます。

 1004年、北方の遼が南下しましたが、真宗は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦しました(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西の西夏が宋に反旗を翻していましたが、こちらも1044年、財貨を贈ることで和睦しました(慶暦の和約)。

 しかし大商人・大地主の囲い込みや水利山沢の利の破壊と脱税に対する改革が求められ、六代皇帝神宗は王安石を登用して国政改革にあたらせました。この動きは王安石の新法などと呼ばれ、農民や坑戸・畦戸などの保護と大商人・大地主の抑制を目的とした施策でありましたが、新法は富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)の激しい妨害を受けます。

 その頃、満州から南下して来た女真族は1115年に金を建国していましたが、宋は金と共同で遼を攻撃する協定(海上の盟)を結び、1121年に遼を滅ぼしました。

 その後、金を牽制するため遼の残党との協力を画策して金の怒りを招き、1127年、金の攻撃を受けて開封は陥落しました。皇帝欽宗、太上皇徽宗以下多数の皇族が北方へ拉致されました(靖康の変)。たまたま開封を離れていた欽宗の弟趙構は、南遷して杭州で皇帝即位を宣言しました。これ以降は南宋と呼ばれいます。

南宋


南宋の位置
Source:Wikimedia Commns
GFDL, リンク


 趙構は1127年即位して高宗となり、宋を再興しました。首都は臨安、現在の杭州市です。

 はじめ岳飛(がく ひ)らの活躍によって金に強固に抵抗しますが、秦檜(しん かい=政治家)が宰相に就任すると主戦論を抑えて金と和平を結び、岳飛は殺されました。秦檜の死後に金の4代皇帝海陵王が侵攻を始めましたが、金の皇族の完顔雍(烏禄)が反乱を起こして海陵王は殺され、完顔雍は金の世宗となり、宋と和平を結びましだ。同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙慎が即位して孝宗となりました。

 孝宗時代には宋金関係は安定し、平和が訪れました。孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・荒廃した農村の救済・江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、南宋は戦乱の痛手から復興しました。

 しかし、1189年に孝宗が退位して上皇、趙惇が即位して光宗となった後、1194年に孝宗が崩御すると韓侂冑(かん たくちゅう)らにより光宗は廃位させられ、反対派に対する大量弾圧が起こりました(慶元の党禁)。 韓侂冑は金がタタールなどの侵入に悩まされている様子を見、北伐の軍を起こすが失敗します。

 1207年、金の要求で韓侂冑を殺して塩漬けの首を送り和睦しました。1233年にモンゴル帝国は金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰め、1234年に金は滅びました。

 1235年、宋軍は北上して洛陽・開封を回復しましたが、これはモンゴルとの和約違反であり、モンゴル軍と戦闘状態に入ります(モンゴル・南宋戦争)。暫くは長江流域を挟み一進一退を繰り返しますが、クビライが襄陽を陥落させる頃には最早内部崩壊により抵抗する力は無く、1276年、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて事実上宋は滅亡しました。

 南走して徹底抗戦を続けた一部の皇族・官僚・軍人らも1279年に広州湾の崖山で元軍に撃滅され、宋は完全に滅びました(崖山の戦い)。

 なお、元代末期に現れた韓林児(かんりんじ=小明王)が、北宋皇帝徽宗(きそう)後裔(こうえい=子孫)(僭称=身分を越えて勝手に照合をとなえること、の可能性も高い)を名乗って宋(大宋)を再興するが短命に終わり、後に明を建国する朱元璋(しゅ げんしょう)に取って替わられました。


宋・文化1つづく