テーマ:アトラーニ(Atranii)
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E-wave Tokyo

青山貞一
Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
無断転載禁 Since March 2004
小さくてもキラリと光る持続可能な社会の姿を求め
春まだ浅い南イタリア・アマルフィ海岸を行く

                Sud Italia in primavera, andare in Costiera Amalfitana                  
アトラーニ(Atrani)  基礎調査(概要)  基礎データ①  データ②  アマルフィ海岸(とは アマルフィ公国とは
テルミニ ネラーノ カントーネ マッサ・ルブレンセ ソレント サンタニェーロ ピアノ・デイ・ソレント ポジターノ プライアーノ フローレ コンカ・デイ・マリーニ
アマルフィ アトラーニ ラヴェッロ  スカーラ ミノーリ トラモンティ マイオーリ チェターラ  ヴィエトリ・スル・マーレ  参考 ポンペイ ナポリ サレルノ
            最新論考 2013年6月 アマルフィ海岸現地視察調査報告 <125本 全体メニュー>   世界紀行   アマルフィ海岸

アトラーニ。谷間の背後はスカーラ(左上)とラヴェッロ(右上) Source:Wikipedia

    
ソレント半島及びアマルフィ海岸の位置。真ん中はアトラーニの紋章


アマルフィ市役所にある古代アマルフィ海洋共和国の紋章
撮影:青山貞一、Nikon CoolPix S8  2011年3月

自治体
名称
距離 標高
(m)
人口 世帯 平均
年齢
製造業
企業数
従業
員数
サービス
企業数
従業
員数
一次
企業
就業
者数
行政
事務所
職員
自動車
保有
台数
住民
所得
総計
(億円)
住民
平均
年収
(万円)
Atrani 21 0-186 965 348 45.6 8 25 19 32 35 91 9 25 534 8.91 97.7
Source:青山貞一・池田こみち、環境総合研究所(東京都品川区)


アトラーニの中心部 出典:Google Map

アトラーニの公式Web


アマルフィ海岸コムーネの位置図  Source:Google Map


アマルフィ海岸のサレルノ側。奧にアマルフィ、ラヴェッロ、中央にミノーリ、マイオーリ、
手前にチェターラ、ヴィエトリ・スル・マーレが見える
出典:グーグル・アース


アトラーニの町 Source:Google Map



アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ。アマルフィから約1kmの距離にある Source:Wikipedia Italiano


ラヴェッロ (トリップアドバイザー提供)


                    ■アトラーニ概要

  アトラーニはサレルノ県北西部に位置しアマルフィ海岸にあるコムーネの一つで南はティレニア海に面している。西隣のアマルフィとは岬ひとつを隔てている。

 距離はわずか1km足らずで徒歩でもわずか10分である。サレルノからは西南西へ約15km、ソレントからは東へ約20km、州都ナポリから東南へ約37kmの距離にある。

                           
            ラヴェッロ側から見たアトラーニ (トリップアドバイザー提供)

 アトラーニの行政面積は0.20 km2 であり、イタリアで2番目に小さな人口がわずか913人のコムーネである。アトラーニはイタリアの最も美しい村クラブにも入っているが、そのなかで人口規模が一番小さな町である。

 なお、イタリアで最も小さなコムーネは北部のフィエーラ・ディ・プリミエーロ(0.15 km2)である。このため、アトラーニは「南イタリアで最も小さな町」ということになる。


アマルフィとアトラーニの一関係   Source:Google Map

                          ■地勢

 上の衛星画像にあるように、アトラーニは峻険なアマルフィ海岸の入江に築かれた小さな街である。

 北にスカーラやラヴェッロといった山間の小さなコムーネと接し、まちを見下ろす山中に散在しているスカーラやラヴェッロのコムーネとは、400m近い標高差を這い上がる道路によってつながっている。

                       ■文化・観光・施設

 アトラーニはアマルフィやポジターノ同様、まち並みの美しさから、たびたび映画のフィルムコミッションやテレビCMのセットとして使われている。

 サンタ・マリーア・マッダレーナ教会(La chiesa di Santa Maria Maddalena)は13世紀に建立され海に面して建っている。バロック様式のファサードとマジョリカ様式のドームそれに鐘楼を持つ。

 アトラーニのもうひつの重要な教会として10世紀に建立されたサン・サルバトーレ教会(La chiesa di San Salvatore de' Bireto)がある。当時、アマルフィ共和国のドージェ(元首、イタリア語)は、この教会で権威の証となる帽子(地元の言葉でbireto)を授けられることになっていた。

                             
                   アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


スカーラ側から見たアトラーニ Source:Wikipedia Italiano


                     ■アトラーニの歴史

初期の歴史とローマ時代

 アトラーニの起源はいまだ不明である。考古学の研究では、紀元前1世紀からの遺跡を発見している。当時、ローマ人の別荘地としてのアマルフィ海岸の地域は存在していた。アトラーニは西暦79年に起きたヴェスビオス火山の噴出による灰や破片で覆われたという。

 灰や破片はアトラーニを囲む周辺の山々に堆積し、その後、それらの灰や破片は谷間に投棄されたという。ポンペイのローマ人の別荘の資料から現在のアトラーニの周辺の山々に人が定住していたとされる。 このことは以下のヴェスビオ山大噴火の影響範囲の推定図からも明らかである。


ヴェスビオ山大噴火の影響範囲 L'eruzione del 79AD.


Eruzione del Vesuvio del 1760-1761 
Source:Wikipedia Italiano

 5世紀、同地にいた原住民はラッタリ山脈地方に逃げ、集落をつくり定住している。アトラーニの存在を初めて文書化しているのは、西暦596年の日付の司教から教皇グレゴリウスの手紙であるとされている。


●アマルフィ公国時代

 アマルフィ公国にはポジターノからアジェーロラ、ピモンテ、チェターラまでまで多数の地域が加わっていたが、アマルフィ公国の領土にあってアトラーニはアマルフィとともに「双子の都市」としてとりわけ高い位置にあった。

 アトラーニには、アマルフィで最も豊かで強力な一族であるパンタ家らが居住していた。アマルフィとアトラーニはアマフルィ公国の元首、知事、裁判官などの指導者を選任又は解任する権利を持っていた。公国における富と力の象徴である元首(公爵)はアトラーニにあるサルバトーレ・デ・ヴィレクトという礼拝堂で"ビレクト(Birecto)"という帽子を授与された。

 当時のアトラーニは現在の領域よりも広く、大きな要塞で防御されていた。現在、聖マグダラのマリア教会が立っている岬に大きな城があったが、1135年と1137年にピサから攻撃をうけデ・リベーラドン・パラファンによって500年に建てられた"塚"や"聖フランシスコ"海岸にあった塔が破壊された。

 歴史的にアトラーニはアマルフィ公国の経済と社会の発展に協力してきたが、その背景にはアトラーニはアマルフィ海岸の中心にあり、アマルフィと双子の関係をもっているというプライドがあった。アトラーニには、「布」、「生地」、「パスタ」の工場をもつなど生活や経済面でもアマルフィ公国を支えてきたと言える。

 アトラーニは宗教生活でも充実しており、多くの教会、修道院、礼拝堂があった。モンテマッジョーレには6つの修道院があったが1343年9月の大津波で海岸線が水没し、アマルフィとアトラーニの宗教施設は破壊された。その後のピサによる連続襲撃によって12世紀以降の数年間のアトラーニとアマフルィのあらゆる活動は沈静化し、弱体化した。

 1620年、ナポリで生まれたアントニア・ガルガーノの息子は密輸業者として妻と一緒にアウト刑務所に投獄されたが、彼はその後、いわゆる"いちじくの反乱"のリーダーとなった。この反乱はナポリ王国全体に広がり、アマルフィにも及んだ。そして反乱運動はフランスの庇護のもとでリアル共和国を宣言し、スペインの攻撃に屈する翌年の4月まで続いた。

 17世紀、大疫病のペストがイタリア全土に広がり、アマルフィのアトラーニでも多くの犠牲者だした。

 1807年6月、ジョセフ・ボナパルト、ナポリ王は、アマルフィ海岸を公式訪問しアマルフィとアトラーニの美しさに心を打たれ、ナポリからアマルフィへの道路の建設を約束したとされている。

 ■2010年の洪水
 2010年9月10日に局地的集中豪雨で大洪水が起き、アトラーニの浜辺からまちの主な道路に沿って海水が進入し、町中が水浸しとなった。銀行はじめさまざまな施設が浸水した。そのなかでバーで働いていたフランチェスカマンシという名の女性が行方不明となった。

 土砂崩れがあり、大量の泥が一気にアトラーニの地先の海浜に向かい流出し、夕方6時頃に市庁舎を出た市長は豪雨で傘が開けなかったと話している。この豪雨はアトラーニの集中豪雨であり、1km西のアマルフィではそれほどの豪雨はなかったという。


ラヴェッロに車で上る途中に撮影したアトラーニのまち
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8

                  ■アトラーニの名所旧跡

サン・サルヴァトーレ・デ・ビレクト教会(Church of San Salvatore de' Birecto)

 10世紀に建てられた教会は、正方形の正面玄関を持っており、バレル丸天井を持つ3つの身廊に分かれている。もともとは西(VIAアルテ・デッラ・ラーナの入り口)に面していたが、バロック時代に現在のファサードは、クロック、階段と吹き抜けで構築された。

 アマルフィ共和国時代の宮殿の礼拝堂にはその栄冠とその衰退の歴史が刻まれることとなった。教会で最も古い部分は、二羽の孔雀等が絵が描かれた12世紀頃の大理石の石板であり、14世紀には墓石として
使用された。
 
 ジュノの神聖孔雀は、よくアマルフィの人やモノによって表されるように、虚栄心とプライドの象徴として多くの東欧の人々から崇められた。孔雀はまた復活の象徴である。
1087年に作られた青銅の扉を教会に寄贈したのは、その20年前にアマルフィ大聖堂の扉を寄贈した同じ人物であるatranese Viarecta パンタレオンであった。ドアはキリスト、聖母マリア、いくつかの聖人の像を含むシーンのタイルに分割されている。それらは現在、サンタマリアマッダレーナ教会に収容されている。


Church of San Salvatore de' Birecto
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


●マグダラの聖マリア後悔の協同教会(Collegiate Church of St. Mary Magdalene Penitent)

 聖マグダラのマリア教会は中世の廃墟となった要塞の上に1274年に設立された教会である。教会は時間をかけ何回も回復を重ねている。 建築物は、1669年に一世紀かけ改修をおこなっている。アトラーニの人口が増加し民間の寄付により1753年に教会はさらに拡大された。この拡充作業でもともとあった廃墟となった要塞が完全に解体された。

 最近になってサレルノの建築家、ロレンツォCasalboreが改装を加えている。教会内は2つの翼をもった廊で飾られている。ひとつの翼は天井のタイルで覆われており、もうひとつは平らな屋根を持っている。この教会には、マドンナの羊飼い(1789年の有名な彫刻)、聖トマスの不信(16世紀サレルノアンドレア・サバティーニの作品)がある。

 また礼拝堂には多くの彫像や絵画がある。教会のファサードは、 "アマルフィ海岸で唯一のロココ様式となっている。テラスはチンブローネ別荘のベルヴェデーレとしてサレルノ湾の聖具室を見ることができる。鐘楼は、褐色の凝灰岩で作られておりナポリのマドンナ・デル・カルミネ教会を彷彿とさせる。

 サン・サルヴァトーレ・デ・ビレクト教会に隣接して、無原罪の御宿りの教会(Church of the Immaculate Conception)がある。この教会では、多くの色をもった大理石でつくられた主祭壇は、中世のものとは対照的に西を向いている。壁に埋め込まれ現在、貯水タンクとして使用されているローマ時代の納骨壺がある。もともとサン・サルヴァトーレ・デ・ベクト教会の青銅の扉はこの教会のためにあつらえたものである。


●サンミケーレアルカンジェロ教会(Church of San Michele Arcangelo ("Camposantino"))

 この教会は、アトラーニにある古代の城壁のすぐ外で、ラヴェッロと国境を接する北門近くの聖ミカエル城壁の外にある。この教会は、11世紀から12世紀の間に建てられている。この教団は階段を使い上り下りし、上部には鐘楼がある。教会の内部は台形であり、岩石の傾斜壁となっている。教会は1927年まで墓地として使用されていた。

 1656年のペストで多くの市民が死亡した際の墓として使用された。祭壇はバロック様式で作成され、Cretellaの絵は聖戦士を描いている、これは1930年と日付が記入されている。祭壇の左側にある階段はサンタマリア・オレアリ修道院の礼拝堂に非常に似た小さな礼拝堂につながっている。



デッロ要塞(見張り台) (Torre dello Ziro)

 デッロ要塞はアマルフィとアトラーニの町を見下ろすアウレオ山(MonteAureo)にあり、スカーラの領土に含まれる。要塞が造られた正確な年月は不明だが、アラゴン王国の記録によれば、15世紀となっている。構造は要塞と塔に挟まれたものとなっており、北は別の城と合体化されている。この遺跡は、スカーラやラヴェッロの南側の断崖絶壁にあり現在でもラヴェッロのチンブローネのテラスからも見ることができる。

 この城の遺跡は、現在でも見ることができる。デッロ要塞は、歴史的に刑務所や監獄としても使用され、歴史上有名な人々がここに投獄され餓死したり、虐殺されている。


デッロ要塞(見張り台)の位置 ティラニア海を見渡す高台にある
Source:Google Earth


白い石造りの構造物がデッロ要塞(見張り台)
Source:Google Map


デッロ要塞(見張り台)の位置 ティラニア海を見渡す高台にある
Source:Google Earth


●カルメル山の聖母教会 (Church of Our Lady of Mount Carmel)

 スキピオCretellaとジャンバッティスタVollaroの主導で1601年に建てられた教会である。内部はバロック様式で装飾され、祭壇の上にマドンナを描いた15世紀のフレスコ画が配置されている。


●Masanielloの洞窟と家(Cave and House of Masaniello)

 Masanielloは、ナポリ総督の兵士に追われ、この洞窟に避難していたと言われている。この洞窟と家は、アトラーニの北側にあり、白い色をした石づくりの建築物で現在でも見ることが出来る。


サンタ・マリア・デル・バンドー教会(Church of Santa Maria del Bando)

 この教会はアウレオ山の上に10世紀に建てられた。その後、12世紀と13世紀に復元と改修が間に行われている。教会は小さな聖具室を持つ身廊を持っている。祭壇近くにはフレスコ画で聖母子が描かれていおり、左側に絞首刑にされようとしている男が描かれている。教会の建物は白大理石で納骨壺を内部に持っている。


断崖絶壁の真ん中にある白い部分がサンタ・マリア・デル・バンドー教会
出典StockFreeImages.com


●聖人の洞窟(Grotto of the Saints)

 デッロ要塞から聖人の洞窟を見ることができる。レモンの木が植えられたテラスに面した小さな自然の洞窟であり、壁には12世紀の4つの伝道を描いている。内部はビザンチン様式のフレスコ画で飾られている。この洞窟は聖人クイリコと大司教レオIによって986年に設立されており、ベネディクト修道院の残骸がある。


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニの干潟(潮が引いた状態の地先) Source:Wikipedia Italiano


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)



アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)


アトラーニ (トリップアドバイザー提供)

アマルフィ海岸の特異な地形


アマルフィ、ミノーリの上空からソレント半島の先端(カントーネ)を見た立体図
ソレント半島の左側がアマルフィ海岸。半島の右側にソレントがある。
急峻な断崖絶壁の地形にカントーネ、ポジターノ、アマルフィなどのまちがへばりついている

アマルフィ海岸現地調査計画

ソレント半島・アマルフィ海岸主要図 Sorrento Pen. & Amrlfi Coast


ソレント半島・アマルフィ海岸全図 Sorrento Pen. & Amrlfi Coast

アマルフィ海岸現地調査計画
すでに実行分 2008.2  計画 2011.3予定 
Naples Bay ポンペイ
Pompei
ソレント サンタニェーロ 25751
Sorrento  Sant' Angello
16536  8421
アジェ-ロラ ラヴェッロ
Agerola Ravello
7348 2508
ファロ カントーネ サンピエトロ ポジターノ プライアーノ フローレ コンカ・ディ
マリーニ
アマルフィ アトラーニ  ミノーリ マイオリ  チェ・ターラ ヴィエトリ
Faro Cantone San Pietro Positano Praiano Furore Conca dei
Marini
Amalfi Atrani Minori Maiori CeTara Vietri サレルノ
1640 3882 1915 810 697 5428 965 3023 5740 2357 8543 Salerno
Tyrrhenian Sea 138188
()内は人口、出典 http://campania.indettaglio.it/eng/province/sa/la_provincia_di_salerno.html

<アマルフィ海岸・ソレント半島>
基礎調査(概要)  基礎データ①  データ②  アマルフィ海岸(とは アマルフィ公国とは
テルミニ ネラーノ カントーネ マッサ・ルブレンセ ソレント サンタニェーロ ピアノ・デイ・ソレント 
ポジターノ プライアーノ フローレ コンカ・デイ・マリーニ アマルフィ アトラーニ 
ラヴェッロ  スカーラ ミノーリ トラモンティ マイオーリ チェターラ ヴィエトリ・スル・マーレ  
参考 ポンペイ ナポリ サレルノ


<関連論考1 初夏のアマルフィ海岸を行く 2013年6月
◆青山・池田:初夏のアマルフィ海岸を行く 8日目:アトラーニへの行き方
◆青山・池田:初夏のアマルフィ海岸を行く 8日目:アトラーニの概要と歴史
◆青山・池田:初夏のアマルフィ海岸を行く 8日目:アトラーニの主な名所旧跡
◆青山・池田:初夏のアマルフィ海岸を行く 8日目:アトラーニの生活と産業
◆青山・池田:初夏のアマルフィ海岸を行く 8日目:アトラーニのマリア教会広場にて①
◆青山・池田:初夏のアマルフィ海岸を行く 8日目:アトラーニのマリア教会広場にて② 


<関連論考2>
●特集:南イタリア紀行 アマルフィ海岸 2008年2月   イタリア
青山貞一:南イタリア紀行  ①ローマでそしてナポリで、しばし呆然
青山貞一:南イタリア紀行  ②絶壁、絶景のアマルフィ海岸を行く
青山貞一:南イタリア紀行  ③紺碧の空と海、絵画のようなアマルフィ
青山貞一:南イタリア紀行  ④アマルフィ大聖堂と広場
青山貞一:南イタリア紀行  ⑤アマルフィの市民生活
青山貞一:南イタリア紀行  ⑥ワグナーが愛した天空の楽園、ラベッロ
青山貞一:南イタリア紀行  ⑦ラベッロから夕暮れのアマルフィへ、そして夕日
青山貞一:南イタリア紀行  ⑧夕闇迫るポジターノ
●南イタリア紀行: ソレントとその周辺  イタリア
青山貞一:南イタリア紀行 ①ソレントでフェラーリ
青山貞一:南イタリア紀行 ②ソレントから見たヴェスヴィオ
青山貞一:南イタリア紀行 ③ソレントの夕日
青山貞一:南イタリア紀行 ④サンタニェーロからソレントへ
青山貞一:南イタリア紀行 ⑤秀逸なソレントの伝統工芸
青山貞一:南イタリア紀行 ⑥ソレントの歴史文化魅力の源泉
青山貞一:南イタリア紀行 ⑦ソレント半島西端のカントーネ
●南イタリア紀行:カントーネ  イタリア
青山貞一・池田こみち: 春浅い南イタリア・ソレント半島カントーネを行く
●南イタリア紀行: ポンペイ  イタリア
青山貞一:南イタリア紀行 ①ポンペイ遺跡探訪 ソレントからポンペイへ
青山貞一:南イタリア紀行 ②ポンペイ遺跡探訪 バジリカ・フォロ
青山貞一:南イタリア紀行 ③ポンペイ遺跡探訪 生活・富裕家のフラスコ画
青山貞一:南イタリア紀行 ④ポンペイ遺跡探訪 闘技場・大体育場・娼館
青山貞一:南イタリア紀行 ⑤ポンペイ遺跡探訪 街路計画・排水路
青山貞一:南イタリア紀行 ⑥ポンペイ遺跡探訪 秘儀荘
青山貞一:南イタリア紀行 ⑦ポンペイ遺跡探訪 人体レリーフ
●南イタリアの「にゃん」と「わん」   イタリア
青山貞一:南イタリアの「にゃん」と「わん」 ③サンタニェーロ・ソレント
青山貞一:南イタリアの「にゃん」と「わん」 ④アマルフィ・ラヴェロ
青山貞一:南イタリアの「にゃん」と「わん」 ⑤ネラーノ・カントーネ
●特集:円高を大いに生かし世界を旅しよう!
青山貞一:円高を大いに生かし世界を旅しよう (1)円高は悪なのか?
青山貞一:円高を大いに生かし世界を旅しよう (2)ホテル代
青山貞一:円高を大いに生かし世界を旅しよう (3)航空運賃
青山貞一:円高を大いに生かし世界を旅しよう (4)現地物価
青山貞一:円高を大いに生かし世界を旅しよう (5)安くないパッケージツアー
青山貞一:円高を大いに生かし世界を旅しよう (6)自分流ツアー実例(バルト3国+北欧2国)