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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road  中国歴史・文化概説

(歴史) 

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 ※参考)  史記  司馬遷

  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆漢(中国)



出典:中国歴史地図庫

 以下はシルクロード時代の漢の概要です。

 漢( Han)は、中国の王朝です。通例、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)の二つの王朝(両漢)を総称して「漢王朝」と呼ばれます。また、ここから転じて中国全土や中国の主要民族を指す名称ともなりました。以下、漢王朝について概説します。

 中国初の統一王朝だった秦王朝が紀元前206年に滅亡すると、中国は秦を討った各軍の将帥による群雄割拠の状態に戻ってゆきました。こうした中、漢中及び巴蜀に封じられていた劉邦が紀元前202年に垓下の戦いで項羽を討って中国を再統一しました。

 中国を統一した劉邦は、皇帝として即位するにあたって旧来の国号であった漢をそのまま統一王朝の国号として用いました。この劉邦が開いた漢と、いったん滅亡したのち劉秀によって再興された後漢の漢王朝は、あわせて400年の長きに渡たりました。初の統一王朝だった秦王朝が短命で滅びたこともあり、漢王朝は中国の統一状態を実質的に確定した王朝となり、これから中国全土や中国の主要民族を指す名称として「漢」が用いられるようになりました。

漢(前漢)


Source:Wikimedia Commons


前漢の位置
Source:Wikimedia Commons

 紀元前202年に中国を統一した初代皇帝である劉邦(高祖)が紀元前195年に没したのち、しばらく高祖の皇后であった呂后とその一族が実権を握ったものの、紀元前180年に呂后が没するとその一族は粛清され、その後即位した5代文帝および6代景帝は文景の治と呼ばれる優れた統治を行い民力の休養に努めたため、漢の国力は伸長しました。

 また、景帝時代の紀元前154年には各地に封じられていた諸侯が呉楚七国の乱と呼ばれる大反乱を起こしたが半年で鎮定され、これによって諸侯の勢力は大きく削られて中央政府の権力が強大化しました。その後即位した7代武帝はこの充実した国力を背景に隣接地域に積極的な出兵を行い、北方の遊牧大勢力であった匈奴を破り、南越を併合し西域諸国を服属させて漢の全盛期を現出しました。

 しかしこうした軍事行動は漢の財政を圧迫し、国力はこのころから下り坂に向かいました。10代宣帝は前漢の中興の祖とたたえられる名君であり、この時期に国力は一時回復したものの、その後は衰退が進み、外戚の王莽が8年に簒奪を行って新王朝を建国し、漢王朝はいったん滅びました。

後漢


後漢の領域
Source:Wikimedia Commons


2世紀の後漢
Source:Wikimedia Commons


光武帝劉秀
Source:Wikimedia Commons


漢委奴國王印文
Source:Wikimedia Commons

 漢王朝は滅びたものの、王莽の政治は時代錯誤的なものが多く、社会にはなはだしい混乱を招きました。各地に群雄が割拠する中、新王朝は漢王家の劉家一族である更始帝によって打倒されました。

 その更始帝政権も中国をまとめることができず崩壊し混乱が続く中、やはり漢王朝の一族である光武帝(劉秀)が国内を再統一し、漢王朝を復興しました。この王朝のことを後漢と呼びます。

 後漢は2代明帝、3代章帝といった名君が続いて国力を回復させ、班超の働きによって一度撤退していた西域にも再進出しましたが、その後は皇帝の夭逝や無能な皇帝が続くようになり、宦官や外戚が国政を壟断するようになって国力は低下して行きました。

 そして184年に起こった黄巾の乱((こうきんのらん)によって漢の統治力は大きく減退し、董卓(とうたく)の暴政とその董卓が192年に暗殺されたことで、漢王朝に実権は全くなくなり、以後は各地に群雄が割拠する中で曹操(そうそう)の庇護の下、細々と名目のみ存続する状態となりました。

 注)黄巾の乱 (出典:Wikipedia)
 中国後漢末期の西暦184年(中平1年)に太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地
 で起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がつき
 ました。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称しています。後漢の衰退を招き、三
 国時代に移る一つの契機となりました。

 注)董卓(とうたく) 出典:Wikipedia
 中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅう
 えい)。 辺境の将軍の1人にすぎなかったのですが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになり
 ました。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷
 で権勢をほしいままにしましたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた
 呂布に殺されました。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝があります。

 注)曹操(そうそう) 出典:Wikipedia
 永寿元年(155年)-建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法
 家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省
 亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作りました。廟号は太祖、謚
 号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれています。


 やがて各地の群雄は華北の曹操、江南の孫権、蜀の劉備の三勢力に統合され、三国鼎立の様相を呈するようになりました。220年に曹操が死去すると、後継者である曹丕は後漢最後の君主であった献帝に皇位を禅譲させ、新たに魏王朝を建国して、ここに漢王朝は滅亡しました。


後漢帝室系図
Source:Wikimedia Commons

首都長安

 漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城がありました。高祖は初めは周の都であった洛陽に都を構えるつもりでしたが、婁敬と張良の進言により長安を都とし、その後、蕭何(しょうか) によって広壮な宮殿が造られました。1956年より遺跡の発掘が進められています。

 注)蕭何(しょうか)
 蕭何(- 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を支えた漢の
 三傑の一人です。


 漢の長安は唐時代の長安(西安)とは違い、方形ではなく歪な形をしていました。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950m、合計22.7kmあります(ちなみに現在は合計で約14kmです)。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられました。主な建築物としては以下があります。




出典:佐原康夫、論説 漢代の市について、京都大学

1.長楽宮
 都の東南部にあり、これは基は秦咸陽の離宮でした。高祖はここに住みましたが、その後は皇后の住居となりました。

2.未央宮
 西南部にあり、蕭何により建造され、恵帝以後の皇帝の住居となりました。

3.北宮
 その名の通り北部にあり、廃された皇后などが住みましだ。

4.桂宮
 これも北部にあり、武帝の時に作られました。また丞相府・御史府などの三公
九卿府がありましたが、具体的な位置は不明。北西部には東市と西市がありまし

5.北宮

 その名の通り北部にあり、廃された皇后などが住みましだ。

6.桂宮

 これも北部にあり、武帝の時に作られました。また丞相府・御史府などの三公九卿府がありましたが、具体的な位置は不明。北西部には東市と西市がありました。

 長安城内の人口は戸籍によれば24万6200人です。


漢・文化へつづく