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Now on the Silk Road   中国歴史・文化概説

匈奴単于国(文化)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は匈奴単于国の文化です。

匈奴単于国(文化)

民族・言語系統

民族系統


 そもそもの「匈奴」すなわち、攣鞮氏を中心とする屠各種族の民族系統については、『晋書』四夷伝に「夏代の薰鬻、殷代の鬼方、周代のケン允、漢代の匈奴」とあるように獫狁、、葷粥と呼ばれる部族が匈奴の前身である可能性が高いといえます。

言語系統

 匈奴はすくなくとも非漢語(非中国語)であったことは「史書」より知られていますが、匈奴語がどの言語系統に属すかについては、今日まで長い間論争が繰り広げられており、いまだに定説がありません。

 18世紀から20世紀初頭のヨーロッパにおける匈奴史研究の主眼は、匈奴が何系統の民族(言語)であるかを解明することにありました。例えば、イノストランツェフの『匈奴研究史』(1942年、蒙古研究叢書)に代表されるように、匈奴がアルタイ語派のうちモンゴル系かテュルク系、またはウラル語派のうちフィン系かサモエード系などと確定することが、当時の匈奴研究の最大の関心事であったのです。

 こうした西洋の研究を受けて日本でも白鳥庫吉、桑原隲蔵らが中国史料に散見される匈奴語を抽出し、それらより匈奴の民族系統を探り当てることを研究の主眼としていました。しかし、宮脇淳子が指摘するように、多民族が融合する遊牧国家においては、中国文献に音写されたわずかな匈奴語が、今日のテュルク諸語やモンゴル語で解読されたとしても、それらが匈奴と呼ばれた遊牧民全体の言語系統を示す根拠とはされていません。

習俗・文化

 匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していません。よって、遺物等の直接的な史料を除けば中国文明の文字記録を参考にするしかありません。

 『史記』に「騎射を善くする」とあるように、匈奴民族には馬はかかせません。遊牧民族であるため、戦になれば男は皆従軍するほか、女も軍事行動と共に移動します。特徴的なこととして「若くて強い者が重んじられ、老人は軽んぜられる」、「一家の長が亡くなると、その跡を継いだ子は自分の生母以外の父の妃達を受け継ぐ」という『史記』の記述がありますが、前代単于の年老いた閼氏(単于の妻)が尊重されていた事や、後代の突厥・モンゴルでは老人が尊重されていた事から判断して、儒教の倫理観と相反する事例を強調して匈奴を非難しているにすぎないという意見もあります。

衣食住

 匈奴の衣類は主に動物の毛皮・革製の物と毛氈(フェルト)製の物を着用し、騎馬民族には欠かせない胡服と呼ばれる袴(こ:ズボン)をはいていました。戦国時代当時の中国ではズボンの概念はなく、いわゆる着物を着ており、馬にまたがることができず、常に戦車と呼ばれる馬車に乗って戦っていました。

 しかし、それでは騎馬戦術に長ける騎馬民族に劣っていたため、趙の武霊王は胡服騎射(騎馬民族風の服を着て、騎射を行う)を中国で初めて取り入れて戦に活用したといいます。また、単于はフェルト製の(さく:帽子)をかぶっていましたが、匈奴には特に階級に応じた冠や帯の服飾がありませんでした。

 食物は主に肉類(牛、馬、羊、兎、鳥、魚)と酪(らく:ヨーグルトの類)を食べていました。住居は固定した建造物ではなく、穹廬(きゅうろ:ゲル、パオ)と呼ばれる折りたたみ式テントに住み、冬になると低地(キシュラック)に移動し、夏になると高地(ヤイラック)に移動して牧畜を行うトランスヒューマンス方式をとっていました。

 この他に、中国人奴隷などのための固定型住居もあり、半地下式の住居址や城塞址、炉の址などが20世紀になって発見されました。

結婚

 匈奴の婚姻において、単于氏族の攣鞮(れんてい)氏には特定の姻族がおり、貴種とされた呼衍氏、蘭氏、須卜氏がそれにあたります。これらの氏族は屠各(とかく)種と呼ばれる匈奴の中心種族に属し、『晋書』四夷伝では他の種族と交わらないと記されています。

 また、漢より公主が嫁ぐと夫人として迎え、子が単于になれば、その閼氏となる。遊牧民における特徴的な風習として、夫に先立たれた妻はその夫の兄弟の妻となり、またその夫が先立てばふたたびその兄弟もしくは子の妻となります。これについて匈奴の高官である中行説は「家系が失われるから」と答えています。

埋葬

 漢の武帝の時期の司馬遷『史記』卷110『匈奴列伝』では、「死者を棺と槨(かく:棺の外側の箱)に安置し、金銀や衣裘を副葬品としますが、封(もりつち)をしたり、樹を植えたり、喪服をすることはありません。側近や寵愛された妾の殉死者は、多ければ数千百人にのぼります。」と記されています。「もりつち」がないのは後の高車にも見られる風習です。

 最盛期の王侯の墓はまだ発見されていませんが、匈奴の壺衍鞮単于(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)の時代には烏桓により過去の匈奴の王墓が暴かれています。

 他方、紀元前後に東匈奴が前漢と和平状態にあった頃、もしくはその後に匈奴が一時盛り返した頃のものと思われる匈奴の王墓が、モンゴル北部のウランバートル北部や、ロシアのブリヤート共和国南部で発見されています。

 ウランバートルのノイン・ウラ遺跡(ノヨン・オール)では二重の木槨が発見され、その内槨の底には毛氈(フェルト)が敷かれ、その上に枕木をして木棺を置いていました。副葬品には土器、銅器、玉器や木製品、染織品、漆器などが出土し、主に中国製の副葬品が多いのです。

 一方で銅鍑(どうふく)や、(鷲グリフィンのような)怪鳥がトナカイ(ヘラジカ)を襲う文様など、遊牧民文化特有の物も出土しています。刺繍された角と翼をもつ獅子は中国の天禄・辟邪の影響でしょうが、それは遠くアケメネス朝の獅子グリフィンに起源をもっています。

 ブリヤートでは、イリモヴァヤ・パヂ遺跡(Ilimovaya padi)で二重の木槨が発見され、ツァラーム遺跡(Tsaram)では紀元前1世紀~紀元後1世紀に陪葬された遺体が発見されました。これらにより紀元前後の匈奴の墓相がおおよそ判明しました。これらの墳墓は“張り出し付き方墳”と呼ばれ、スキタイ族の墳墓クルガンとの類似点もあるとはいえ、その起源はいまだ不明です

宗教

 匈奴の宗教としてはシャーマニズム(薩満教)、上天信仰があり、年三回集まって大祭祀を開いました。シャーマニズムは後の鮮卑、高車、柔然、突厥にも見られます。

農業

 匈奴は牧畜と狩猟を生業とし、たびたび中国に侵入・略奪を行いました。そこで匈奴が遊牧を専らとし、農耕は行っていなかったと考えられていますが、近年の考古学調査の結果から、連れ去った農耕民奴隷によるバイカル湖畔での農業生産が確認されています。

 1920年代からロシアのブリャーチヤ共和国でイヴォルガ遺跡の発掘が行われ、そこから中国人奴隷のための住居跡が見つかっています。この他にも約20か所の集落遺跡が発掘されています。これにより、かつて匈奴が漢へ侵入略奪を行った際の奴隷や、戦における捕虜などが北方のバイカル湖畔において、匈奴のために農業や手工業生産に従事させられていたことがわかっています。

 この他にもタリム盆地のオアシス定住民に対しても、同様のことが行われ、匈奴が肉ばかりではなく、穀物も食べていた(もしくは売買していた)ことが分かります。

単于庭

 匈奴の単于庭、すなわち都の位置について、『史記』や『漢書』では「代郡、雲中郡の北」としており、内田吟風は情勢によって時折所在を変えており、非常時にはケルレン河畔に一時的に遷していましたが、原則的には、内モンゴル自治区のフフホト付近に在り、児単于(在位:紀元前105年 - 紀元前102年)以降はモンゴルのカラコルム付近に在ったとしています。

 内モンゴル自治区のフフホトは、以下のグーグル地図にあるように、山西省大同市の北西にあります。


内モンゴルフフホト付近の位置
出典:グーグルマップ

 注)フフホト市(中国語:呼和浩特市、モンゴル語:Kokeqota.svg、英語:Hohhot)
  16世紀にアルタン・ハーンによって築かれた南モンゴルの古都フフホトと、
  近隣の4つの県、1つの旗(ホショー)によって構成された中華人民共和国
  の地級市のひとつであり、内モンゴル自治区の省都、直轄市(シュード・ハ
  リヤ・ホト、siγd qariya qota)です。


中国における内モンゴルフフホト付近の位置
Source:Wikimedia Commons
By Croquant - Own work, CC BY 3.0, Link


  以下は現在のフフホト市の写真です。

 
 現在の内モンゴル自治区フフホト市
Source:Wikimedia Commons
Montage by Lzy881114 - All CC/PD sources:File:GenghisKhanMonument.jpgFile:王昭君墓碑.pngFile:Suiyuan Governor 4.JPGFile:夕阳下的五塔.png, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
 

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