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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(歴史1)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆唐 歴史(中国)

唐の位置
唐の領土(版図)の変化(アニメーション)


出典:中国歴史地図庫

 以下はシルクロード時代の唐の概要です。

 唐(Tang、618年 - 907年)は、中国の王朝です。

 李淵が隋を滅ぼして建国しました。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや、東南アジア、北東アジア諸国、例えば朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた世界帝国です。

 日本の場合は最も有名なのが遣唐使の派遣で、894年(寛平6年)に菅原道真の意見でその回の遣唐使を中止し、それ以降派遣しなくなるまでは積極的な交流をしていました。首都は長安(今の西安)に置かれていました。

 690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられましたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例です。


遣唐使の船の想定される航海ルート(日本から中国唐へ)
Source:Wikimedia Commons

歴史

初唐


 7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していましたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥りました。このとき、煬帝のいとこであり、太原留守であった李淵は義寧元年に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城を陥落させると、煬帝を太上皇帝に祭り上げて、その孫、恭帝侑(きょうていゆう)を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握しました。翌隋義寧2年、唐武徳元年に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位、唐を建国しました。

 注)恭帝 侑(きょうてい ゆう) 出典:Wikipedia
 隋朝の第3代皇帝(在位:617年12月18日 - 618年6月12日)。第2代皇帝の煬帝の孫に当たります。
 元徳太子楊昭の子。母は韋寿の娘の韋妃です。 607年、陳王に封ぜられました。のちに代王に改
 封されました。煬帝が高句麗遠征に出征すると、京師(長安・大興城)の総留事をつとめました。
 615年、煬帝の晋陽行幸に従い、太原郡太守に任じられましたが、まもなく京師に戻りました。617年
 11月、唐公李淵が長安を占拠すると、楊侑は隋の皇帝として擁立され、大興殿で即位しました。李淵
 を尚書令・大丞相に任じ、唐王に封じて国政を任せた。618年3月に煬帝が宇文化及に殺害され、5月
 にその知らせが長安に届くと、楊侑は李淵に帝位を禅譲し、ここに隋は滅亡しました。唐の酅国公に
 封ぜられた。 619年9月、李淵の承認を得た李世民により殺害されました。なお東都洛陽で擁立され
 王世充によって殺された異母兄の楊侗(恭帝侗)は、恭帝侑が李淵に禅譲した経緯のために正統な皇
 帝とは見なされていません。

 注)李淵(り‐えん)[565~635] 出典:コトバンク
 中国、唐の初代皇帝。在位618~626。字(あざな)は叔徳。廟号(びょうごう)は高祖。隋に仕えたが、
 煬帝(ようだい)の失政に乗じて挙兵し、長安に入って恭帝を擁立。618年、恭帝の禅譲を受けて即位
 し、群雄を平定して唐を建国しています。


 建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていましたが、それを李淵の次子李世民が討ち滅ぼしてゆきました。勲功を立てた李世民は、626年にクーデターを起こすと李淵の長男で皇太子の李建成を殺害し実権を握りました。李淵はその後退位して、李世民が第2代の皇帝となります。

 李世民は北方の強国突厥を降してモンゴル高原を羈縻(さび)支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られました。また内治においては三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高いものとなっています。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮でまで帝王学の教科書として多く読まれました。

武則天


武則天
Source:Wikimedia Commons

 唐の基礎を据えた李世民の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎えます。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后とその一族の武氏による専横が始まりました。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により国号を周と改めました。

 中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方、新興富裕階層を取り込むため土地の併呑に許可を与え版籍の調査を緩めましたが、農民の逃散や隠田の増加が進行して社会不安と税収減及び均田制の綻びを招きました。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、神龍元年、宰相張柬之に退位を迫られました。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に即き、周は1代15年で滅亡しました。

 しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺しました。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策しましたが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められました。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こります。

 2人の皇后の姓を取って7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を「武韋の禍」と呼びます。

盛唐(8世紀初頭 - )

玄宗


玄宗
Source:Wikimedia Commons


8世紀前半の唐


高僧玄奘三蔵像と大雁塔
撮影:随行学芸員 Nikon Coolpix S9900

 712年(先天元年)、李隆基は睿宗(えいそう) から譲位され即位したのは玄宗です。

 注)睿宗(えいそう)[662~716]
 中国、唐の第5代および第7代皇帝。在位684~690、および710~712。高宗の第8子。書道に
 すぐれ、文学や経典の教養もありましたが、政治的には、母の則天武后や韋后(いこう)の意の
 ままに動かされました。

 注)玄宗(げんそう)[685~762]
 中国、唐の第6代皇帝。在位712~756。姓は李、名は隆基。諡号(しごう)は明皇帝。「開元の治」
 とよばれる太平の世を築いたが、晩年は楊貴妃(ようきひ)に溺れて安史の乱を招きました。


 翌年、太平公主を処刑しました。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となります。この時期、唐の羈縻支配と冊封政策は中央アジアにまで及びましたが、751年にトランスオクシアナの支配権を巡ってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れました。

 玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相の李林甫ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許しました。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こしました。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度です。北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていた安禄山はたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ大燕皇帝と称しました。

 都の長安を占領され玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺されました。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位しました。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(太子の葉護ら)によって、763年に乱を平定しました。9年に及んだ反乱は、安禄山とその死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれています。安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付きました。以降、唐は次第に傾いてゆきます。

 軍事力増強のために藩鎮を増やした結果、内地の節度使も増加しました。各地に節度使が置かれた状態は、後の五代十国時代まで続きました。


8世紀前半の唐
Source:Wikimedia Commons


中唐(8世紀半ば - )

 安史の乱により疲弊した唐は、中央アジアのみならず西域も保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失ってゆきました。

 これに対し、中興の祖と謳われた憲宗は、中央の禁軍を強化することで中央の命令に服さない節度使を討伐し、朝威を回復させました。しかしその後不老長寿の薬といわれた丹砂(水銀)をはじめ怪しげな仙薬を常用するようになると、精神に不安定をきたして宦官をしばしば殺害したため、恐れた宦官により殺されました。孫の文宗は権力を握った宦官を誅殺しようと「甘露の変」と呼ばれる策略を練りましたが失敗し、かえって宦官の専横を招きました。

晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)

 文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めました。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多かったため、実態の無い僧を還俗させ財政改善を図りました。この時期、牛僧孺党派と李徳裕党派の政争が激しくなり、これは牛李の党争と呼ばれています。

 この頃から、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱(ほうくんのらん)に代表される、行政の改善を要求する武装闘争が各地で起きました。874年頃から黄巣の乱が起きます。この乱は全国に波及、黄巣は長安を陥落させると斉を建て、皇帝就位を宣言しました。しかし黄巣軍の構成員は多くが貧民出で政務を執行できず、略奪を繰り返して憎悪を買った挙句に長安を去りました。

 注)龐勛の乱(ほうくんのらん)
 中国唐末期の868年7月に武寧藩鎮の軍人である龐勛(ほうくん)が起こした反乱です。


 この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参しました。朱温は唐から全忠の名前を賜り、以後朱全忠と名乗ります。この頃になると唐朝の支配地域は主に首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小し、藩鎮からの税収も多くが滞って行きました。

 河南地方の藩師となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して、唐の権威を借りて勢力を拡大しました。

 907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡します。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立って行きます。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力を持たず、中国は五代十国の分裂時代に入ります。

 唐の滅亡により、中国は東アジア文明をリードする力を失い、契丹や日本など、唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は独自の発展をしていくこととなりました。


唐の系図
出典:Wikipedia


唐・歴史2つづく