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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(文化・建築)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆唐 文化・建築(中国)

 唐の首都の長安は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市でありました。日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいました。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都でもありました。

思想・宗教

儒教


 科挙制度において儒教の経典が必須科目となり、太宗は孔穎達(くえいたつ)に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった『五経』を一つの解釈にまとめる『五経正義』を編纂させたことで不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとしました。

 注)孔 穎達(く えいたつ) 574年(建徳3年) - 648年10月10日(貞観22年9月18日))
 中国初唐の学者です。字は沖遠。冀州衡水県(現在の河北省衡水市桃城区)の出身です。
 孔子32世の孫と称しています。漢音では「こうえいたつ」ですが、日本では平安時代以来の
 慣行で呉音の「くえいたつ」「くようだつ」で読み習わしています。秦王府十八学士のひとり
 に挙げられていました。


仏教

 後漢代に伝来した仏教は魏晋南北朝時代の混乱の中で流行しました。玄奘・義浄などはインドへ赴いて大量の経典を持ち帰り、貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えました。特に武則天は仏教を厚く保護したことで有名です。この時代の宗派には禅宗・浄土教・密教・華厳宗などがあり、それぞれ栄えましたが、三階教は徹底的に弾圧されました。

 注)三階教(さんがいきょう) 出典:コトバンク
 中国の信行 (540~594) の唱えた宗教です。三階宗,三階仏法,普法宗ともいいます。隋,
 唐,宋にわたり約 400年間行われました。仏法に三階 (3種の段階) があるとし,仏法の衰え
 た末法のときには第三階の法である普真普正法 (仏,法,僧の三宝に帰依し,すべての悪
 から離れ,すべての善を修する法) を修すべきであるとする派です.。『地蔵十輪経』の説によ
 っているといわれています。

 なお、日本から遣唐使船で来唐し、長安の青龍寺の恵果から民教を学んだ空海は、その後日本に帰って高野山を創建し真言密教を広めました。空海はその後弘法大師となりました。空海は、郷里の四国で八十八か所霊場巡りなどを創設し、現在に残っています。また空海と同じ遣唐使船で来唐した最澄は、その後、帰国後天台宗を広めています。

道教

 皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後という原則が定められていました。特に玄宗はその廟号も道教風であり、道教に傾倒していまする。玄宗は日本人の僧が仏教を伝えようとすると、「なぜ道教も伝えないのか」と甚だ不快を示したことも有ります。

その他の宗教

 その他にも長安には明教(マニ教)・祆教 (けんきょう=ゾロアスター教)・景教(ネストリウス派キリスト教)・イスラム教などの寺院が立ち並び、国際都市としての景観を持っていました。このうちイスラム教を除く三者は、特にこの時期に盛んに(公的に)流布したことから「唐代三夷教」と総称されています。

宗教政策

 第15代武宗は道教を信奉し、仏教を始めとする外来宗教を取り締まりました(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただ、この措置に宗教的な色は薄く、出家により脱税を謀る私度僧を還俗させ財政の改善を目的としました。これ以降の仏教は往時の繁栄を取り戻すことはありませんでした。

 復興した仏教は禅宗や再興した天台宗が中心となりますが、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなりました。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である百丈清規中の「一日作さざれば一日食らわず」という有名な言葉に表れています。

 また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始めます。それは、韓愈の著した『原道』『原性』などの中に見られる思想で、堯・舜や孔子以来脈々と続く「道統」論を提唱し、宋学の先駆となりました。

茶道

 茶の普及は唐代になって行われました。南北朝時代までは南方における習慣でしたが、統一王朝である唐が安定したため、物流が確立し、北方にも流通しました。また、後趙時代から禅宗の寺において、禅修行のため、眠気覚ましに覚醒作用のある茶を飲むことが許されたため、在家の仏弟子たちの間で飲まれており、北方にも次第に普及しました。

 盛唐になり、茶の普及が広がっていくなかで、陸羽が、上層階層向けに、史上はじめての茶の専門書である「茶経」を書き、喫茶を規範化する動きが行われました。それ以前は、茶には、生姜や蜜柑の皮、葱、紫蘇などをいれ、飲んでいましたが、「茶経」では茶が持つ真の味を損なうとして、新たな喫茶や茶の煎り方を薦めています。

 そのため、文人や官僚の間で喫茶の形式化が進むことになり、「茶道」という言葉も生まれました。


西安・兵馬俑近くの茶器・茶道具店にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


西安・兵馬俑近くの茶器・茶道具店にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

 茶は皇族や貴族、官僚に浸透し、風習にまでなりました。9世紀になり、茶は、「荼」という字で表されていましたが、「荼」は「苦菜」の意味も含むことから、独立して「茶」という字で表されることになりました。茶は南方で採り、北方では固められ、「餅茶」として運ばれました。飲むときは、粉にして抹茶の形にして飲みました。次第に北方でも茶を生産するようになります。北方の随所に茶を売る店や茶店が生まれ、飲まれるようになったのです。

 茶には塩や生姜をいれる風習は続きました。「餅茶」だけでなく、「散茶」も存在しました。晩唐には、「点茶」が生まれました。

 また、唐代には禅宗の寺だけでなく、寺全般に茶が普及し、禅宗では喫茶は宗教儀礼の中に、茶礼として組み入れられてゆきました。寺院では需要に応じて、茶園がつくられていました。

 「餅茶」は、茶の主流もあり、保存・運搬ともにすぐれ、回?に好まれ、「茶馬交易」が行われ、日本にも伝来しました。茶の生産・消費の増大とともに、780年には茶税がはじまり、課税され、唐政府の重要な財源となりました。835年に、全て官営茶園で独占しようとする動きがありましたが、猛烈な反対に遭い、中止となっています。

茶道の歴史概要

 「茶道」は中国から体系的に茶の知識を持ち込んだ書物は唐の陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』と言われています。この本には、茶の木の育て方、収穫方法と道具、たてかた、飲み方、歴史などが詳しく書かれています。 804年、空海と最澄は中国から茶を持ち帰えいましたが、あまり発展することもなくその後の戦乱で忘れ去られました。
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 茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に空海と最澄ら遣唐使によってもたらされた、当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられています。
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 鎌倉時代に日本に禅宗を伝えた栄西和尚は、中国から持ち帰った茶を九州に植えました。また、宇治の明恵上人にも茶の種を送り、それが宇治茶の起源とも言われています。茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及してゆきました。
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 1472年、義政は息子に将軍位を譲り東山に隠棲しました。その隠居所に建てられた東求堂に、同仁斎と呼ばれる日本最古の書院茶の湯形式の茶室があります。この四畳半の簡素な小部屋で禁欲的な茶礼と、同朋衆として知られる唐物数寄の人々のによる中国渡来の美術品の鑑評会が融合し、書院「茶の湯」して展開しました。
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 一方で平安初期以来の団茶系統の茶も寺家の間では続いていたと考えられ、これがやがて煎茶の勃興にいたります。わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至ります。
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 利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら「利休七哲」と呼ばれる弟子たちを生んでゆきます。さらにはわび茶から発展し、織田有楽、小堀遠州、片桐石州ら流派をなす大名も現われました。現代では特に武家茶道、あるいは大名茶などと呼んで区別する場合もあります。



美術


龍門石窟
Source:Wikimedia Commons

 唐代の美術品については現存するものが少ないといえます。そこで唐代美術を伝えるものは莫高窟や龍門石窟などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となります。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、さらに仏教美術が圧倒的に多いことが特徴です。

 絵画においては閻立本・呉道玄・李思訓・王維と言った名前が挙がる。閻立本は太宗に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意としました。

 呉道玄は玄宗に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたといいます。しかし作品は現存していません。李思訓は武則天期の人で、色鮮やかな山水画を得意としました。

 これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ北宗画・南宗画の祖として扱われるようになります。唐後期は水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られます。この代表として同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は王墨・李霊省・張志和の3人を挙げています。

 書は王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎えます。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が虞世南・褚遂良・欧陽詢です。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものですが、これに対して張旭は狂草と呼ばれる奔放な書体を創り、さらに張旭に師事した顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てました。

 陶磁器の分野では、唐三彩と呼ばれる逸品が作られ、名の通り色鮮やかな点が特徴です。人物像や動物像(俑)などが多く、器も実用性の低い物が多いいえます。一方、高温度で焼成する磁器も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっています。


陶器唐三彩の馬
Source:Wikimedia Commons


唐王朝時代の、踊る馬の模様を持つ金メッキを施した銀器
Source:Wikimedia Commons

異国趣味

 唐代は、西域のものを中心とした異国の文物が好まれ、盛唐の長安、洛陽において、特に盛んでした。長安では貴族から庶民から、ペルシア、インド、ソグド、突厥の絵や飾りがつけられた工芸品が使われました。ペルシア語や突厥語の言語や文字が学ぶ者もいました。

 西域や突厥の影響を受けた衣類、食事に加え、天幕などの住居も流行しました。音楽や舞踊も西域のものが愛好されました。画家による異国人や異国の神々を題材に描いたものが多数存在し、壁画に残っています。塑像でも異国人をモデルにしたものが作られ、仏像も異国の影響が強いものが作成されました。百戯の一部となる曲芸や幻術も伝来しました。

 また、多くの唐詩で異国人や異国の動物が題材として唱われた。中唐以降は、異国品は身近なものではなくなってゆきましたが、異国を題材とした文学が、より盛んとなりました。李賀、杜牧などが唐詩に用い、多くの伝奇小説が書かれました。

注)伝奇小説(でんきしょうせつ) 出典:Wikipedia
 主に中国の唐-宋時代に書かれた短編小説のこと。六朝時代の志怪小説より発展して成立しました。唐代伝奇、唐宋伝奇とも呼びます。晩唐の作品集である裴鉶 『伝奇三巻』の題名が一般化して、唐の小説を伝奇と総称するようになったといわれます。また、これらを元にした後代の作品を呼ぶこともあります(芥川龍之介「杜子春」など)。


異国人


 唐は比較的、胡人と呼ばれる異国人に寛容であったため、唐代では胡人が各地に居住していました。胡人は、長安、洛陽、広州、揚州などの商業取引が盛んな大都市や市場がある中都市に集まっていました。胡人は、西域から来たソグド人、北方の突厥人や 回紇人が特に多かったと言えます。胡人は、唐代以前に、中国西北部に集落をつくり、唐の建国後移住するものが多かったのです。彼らは、商人だけでなく、宗教家、画家や楽士、工芸家、曲芸師などがいました。

 注)胡人(こじん)
   胡人は、古代中国の北方・西方民族に対する蔑称です。「胡瓜」、「胡弓」、「胡姫」のように、
   これらの異民族由来のものである事を示す用法があります。もともとの意味は、「あごひげ」が
   長い人です。


   西胡:「胡」は戦国時代、内モンゴルの塞外民族を指していましたが(→北狄)、秦漢朝では
   特に匈奴を指すことが多くなりました。唐代にいたり、シルクロードの往来が活発になると、「胡」
   は特に「西胡」ともいわれ、西方のペルシャ系民族(ソグド人)を指すようになりました。彼らが
   トルキスタンから唐土に運んだ文物、風俗は「胡風趣味」として愛好され、胡服、胡笛、胡舞など
   が中国で一文化として根付いていった。


   東胡:春秋時代から漢代にかけ内モンゴル東部にいた遊牧狩猟民族で、胡(匈奴)の東方に
   住んでいたことからの呼称です。モンゴル(またはテュルク)とツングースの雑種であり、秦代に
   なると一時は匈奴を圧倒しましたが、冒頓単于により壊滅させられました。烏桓や鮮卑はその
   後裔といわれます。


 胡人は、居住区を区別され、都市の胡人居住地においては、それぞれの長が選ばれ、紛争は自国の法律で裁くことが定められ、他国同士の紛争は唐の法律で裁かれました。胡人は、唐で死んだ場合、妻子がいなければ、財産は国の所有になりました。また、唐の女性を妻妾にした場合は連れ帰ることは許されませんでした。

 胡人の商業に対する規制は強く、朝貢や関税の形をとって、商品を一部差し出す必要があることが多かったのです。さらに、交易を行う商品は制限された上で、大きな市で販売をしなくてはなりませんでした。また、輸出品も大きく制限されました。それであっても、胡人の商人は成功するものが大勢いました。彼らは、利益を得るため、各地に赴いて、商取引を行い、大金で交易するものも数多かったといえます。また、長安には邸店を開いていたペルシャ人もいました。

 注)邸店(ていてん)
  唐以後の中国の都市において発達した施設で、大規模な宿泊施設(旅館)に倉庫機能が付属したものを指します。

 長安を中心とした高級な酒場である旗亭や酒楼では、胡姫と呼ばれる若いソグド人の白色人種の女性が働いていました。彼女らの中では、唄や胡旋舞などの踊りに長じるものも多かったのです。

 初唐や盛唐では節度使などの唐政府の要職に就くことが多かったのですが、中唐以降は、服装や結婚、不動産所有が規制されることが増え、唐全体として排外主義の思想が強くなりました。

 宗教としては、長安には、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派、キリスト教、密教の寺院が建立され、9世紀の武宗の宗教弾圧までは様々な宗教が混在していました。

日本との関係

 日本からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が660年に日本の同盟国である朝鮮半島の百済を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となりました。さらに663年、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を白村江の戦いで打ち破ります。

 しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて遣唐使による平和的通交が再開されました。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収しました。遣唐使には仏教だけをとっても、高野山真言密教の空海(のちの弘法大師)、最澄などがいました。

 唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われました。唐の文化の日本への影響は現在でもあちこちに残っており、天平文化や国風文化にその影響は色濃いと言えます。唐招提寺や高野山金剛峯寺など、唐出身者や、唐で学んだ人々が立てた寺院も残っています。

 日本人の間では官職・人名を唐名で呼ぶことも流行し、江戸時代に至るまで「織田右府」「豊太閤」「本多中書」「物徂徠」「水戸黄門」などの呼称が史料に頻出しています。

 9世紀になると唐政府の衰えと民間交易の発展から日本が国家事業として遣唐使を送る意義を失って行きました。

 894年、菅原道真の建議により遣唐使は停止され、その後、明の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はありませんでした。


木造建築

 この時代の木造建築は、「三武一宗の法難」を逃れた仏教寺院などが残されています。

 南禅寺

 佛光寺 東大殿

◆唐代の建築
 2009-03-16 10:25:28 cri [A A A]

 唐代(紀元618~907)は中国封建社会の経済文化の発展期にあたる。この時期の建築技術や芸術が大きな進展を遂げた。唐代建築の特徴は、勢いがあり、雄大なものだった。

 唐代建築の規模は大きく、規制は厳密で、中国建築群の全体的な規制はこの時期に日増しに増えていきた。唐代の都である長安(現在の西安)と東都である洛陽では、規模が膨大な宮殿、庭園、官署が造られ、建築配置も更に模範的かつ合理的になった。

 長安はその時代、世界で最も雄大な都市で、その規制は中国古代都市のうち、最も雄大でした。長安城内の帝王宮殿である大明宮は極めて雄大で、その遺跡範囲は明代と清代の故宮である紫禁城の総面積より3倍以上も大きいものである。

 唐代の木造建築は芸術加工や造形の統一を実現し、斗拱、柱、梁などの建築部は力強さと美しさを完璧に結合させている。唐代建築は素朴かつ穏やかで、色調もシンプルかつ鮮やかである。山西省五台山の仏光寺は典型的な唐代建築でこれらの特徴を表している。

 其のほか、唐代の煉瓦建築も一層発展した。仏塔はほとんどが煉瓦と石で造られ、西安の大雁塔、小雁塔、大理の千尋塔など中国現存の唐代の塔はすべて煉瓦と石で造られたものである。


西安の大雁塔

出典:CRI online


◆中国の建築

 国の建築は宮殿,陵墓,壇廟,仏教・道教・儒教建築,住宅など多方面にわたるが,どの時代でも天子の住う宮殿建築を中心命題として,その技術を発達させてきた。

 その様式は南北に中心軸を設定し,主要な建物を中心軸上に南面して建て,付属する建物は中庭を介して東西に対称に向き合うように配し,歩廊で相互を連絡する。

 このために独立した一戸の建物と考えるより,建物群として意識されていた。間取りは長方形がほとんどで,柱筋をもとにして仕切られ,日本建築のように複雑な間取りとはならない。使用される材料は木材が中心で,石,塼 (せん) ,鉄,銅などの材料を使用しても外観は木造建築の手法を模している。

 建物群として意識されるから,遠くから見える屋根の稜線,窓,扉,軒下の細部 (斗 栱など) や彩色などに,その特色が見出される。宮殿建築は殷墟の建築遺跡のなかに基本形式の完成がみられる。春秋・戦国時代には瓦も発明されて諸王のもとで競われ,その発達した技術は秦の始皇帝によって統合されて,漢代には頂点に達したものと考えられる。

 魏,晋,南北朝,隋,唐,宋代には,漢代に完成された建築様式をいかに早く建てるか,という建築部材の規格化,工業化への道をたどり,元,明,清代はその応用で適応できた。紫禁城に残る建物はその記念といえる。陵墓は,殷代には地下に巨大な形式を残しているが,秦の始皇帝陵では方台墳に変化している。

 唐代になると象設と呼ばれる石人石獣の制度が盛んになり,陵の威容を発揮するための風水説が発達し,明の十三陵,清の東陵,西陵に収斂された。仏教建築は魏,晋,南北朝時代に伝来した仏教のための建築で,仏殿,石窟,塔婆などが出現した。

 仏殿は唐代の南禅寺,仏光寺の建物を最古とし,宋代の鎮国寺千仏殿,遼代の独楽寺観音閣,奉国寺大雄宝殿,広済寺三大士殿,華厳寺の薄伽経蔵などにみるべきものがある。

 石窟は魏,晋,南北朝時代より宋代頃に開窟され,敦煌,雲崗,竜門石窟が有名。仏塔は嵩岳寺塔を最古とし,神通寺四門塔が残る。唐代になると慈恩寺大雁塔,薦福寺小雁塔,興教寺玄奘塔,会善寺浄蔵禅師塔が建てられた。

 宋代以後になると遼金塔と呼ばれる 塼塔がみられ,白塔子の白塔,遼陽白塔,開元寺料敵塔などが有名で,仏宮寺釈迦塔が最古の木造塔として残っている。元代以降になるとラマ塔や金剛宝座塔も出現する。中国固有の考え方に基づく壇廟建築には北京郊外に天壇,地壇がある。

 また道教・儒教建築も特色としてあげられる。 16世紀になると洋風建築が出現しているが,近代になってフランス,ソ連の様式主義の建築が取入れられて,本格的に建立された。建築技術書として宋代の『営造法式』,清代の『工程做法』が重要である。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大


唐・陶磁器へつづく