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Now on the Silk Road  中国歴史・文化概説

(歴史2) 

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆清 (歴史)



出典:中国歴史地図庫

18世紀の清

 順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3代に清は最盛期を迎えました。

 康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合し福建省に編入、清の中国支配を最終的に確立させました。対外的には清露国境紛争に勝利してロシアとネルチンスク条約を結んで東北部の国境を確定させ、北モンゴルを服属させ、チベットを保護下に入れました。

 また、この頃東トルキスタンを根拠地としてオイラト系のジュンガル(準噶爾)部が勃興していましたが、康熙帝は北モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破りました。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼし、バルハシ湖にまでおよぶ領域を支配下に置き、この地を新疆(ice jecen イチェ・ジェチェン)と名付けました(清・ジュンガル戦争)。

 これによって黒竜江から新疆、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定したのです。


大清帝国 
Source:Wikimedia Commons


避暑山荘にある麗正門。門上に掛かる額には清で使われた五つの文字が書かれ、
清の皇帝支配下の五つの民族を表す。左からモンゴル文字、アラビア文字表記の
ウイグル語、漢文、チベット文字、満洲文字。これらを合わせて五体という。
Source:Wikimedia Commons


 こうして、少数の満洲族が圧倒的に多い漢民族を始めとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、一人の君主が複数の政治的共同体を統治する同君連合となり、中華を支配した王朝の中でも特有の制度を築きました。省と呼ばれた旧明領は皇帝直轄領として明の制度が維持され、藩部と呼ばれた南北モンゴル・チベット・東トルキスタンではそれぞれモンゴル王侯、ダライ・ラマが長であるガンデンポタン、ベグといった土着の支配者が取り立てられて間接統治が敷かれ、理藩院に管轄されました。満洲族は八旗に編成され、軍事力を担ったのです。

 また、皇帝が行幸で直轄する地域を訪れる際には漢民族の支配者として、藩部の支配地域に行く際にはゲルに寝泊りを行いモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関係を維持しました。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取っていました。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみたのです。

 清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高いものとなりました。一方で満洲族の髪型である辮髪を漢民族にも強制し(ただしモンゴルは元々辮髪の風習を持ち、新疆では逆に禁止していました)、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧する一方、科挙の存続等の様々な懐柔政策を行っています。

 注)文字の獄(もんじのごく)とは  Wikipedia より
  中国の歴代王朝で行われた、粛清の類型の一つ。文書に書いた文字や内容が皇帝や
  体制を婉曲に批判しているとして、当該文書を作成した者を罰することだが、実際には無
  実であることが多かったという。

 しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(hešen、和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、ヘシェンによる厳しい取り立てに住民が蜂起した白蓮教徒の乱が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれした。

 このとき鎮圧に動員された郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命を支える組織になって行きました。

西欧列強の進出と内乱

 19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代です。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいました。これらの理由に関しては様々な説明がなされますが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということです。

満州の歴史

 19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということでした。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていました。しかし、18世紀後半になると、西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していました。

 英国商人は18世紀末に西欧の対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進しました。また、アメリカも独立戦争後の1784年にアメリカの商船エンプレス・オブ・チャイナ号が広州で米清貿易を開始しました。米清貿易により清は金属・オタネニンジン・毛皮を、米国は茶・綿・絹・漆器・陶磁器・家具を得ました。

 1793年、英国は広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣しました。使節団は工業製品や芸術品を皇帝に献上しましたが、商品価値を持つ英国の製品は無く、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみでした。こうして対中輸出拡大を望む英国の試みは失敗に終わったのです。

 この清の対応の結果、英国と清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなりました。当時の英国は、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していましたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていました。

 これに対し、英国はアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させました。清は1796年にアヘンの輸入を禁止しましたが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになりました。また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させたことの大きな原因となっています。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化しました。

 林則徐は広州で英国商人からアヘンを没収して処分する施策を執りましたが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていた英国は、この機会に武力でアヘン密輸の維持と沿岸都市での治外法権獲得を策して、翌1840年清国沿岸に侵攻しアヘン戦争を始めました。

 強力な近代兵器を持つ英国軍に対し、林則徐ら阿片厳禁派とムジャンガら阿片弛緩論派との間で国論が二分されて十分な戦力を整えられなかった清軍が敗北し、1842年英国と不平等な南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結しました。

 主な内容は、香港島の割譲や上海ら5港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清が英国以外の国と締結した条約の内容が英国に結んだ条約の内容よりも有利ならば、英国に対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認でした(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結しました)。


英国海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵
Source:Wikipedia Commons

天津条約の調印の様子

 アヘンの対中密輸が伸び悩んだので、英国は1856年清の官憲が自称英国船アロー号の水夫を逮捕したのを口実として、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こしました。英国は、宣教師が逮捕されたことを口実として出兵したフランスと共に、広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結しました。

 条約の批准が拒否されると北京を占領し、批准のみならず天津ら11港の開港・英国に対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせます。北京条約を結んだ(1860年)。これによりアヘン以外の商品の中国市場流入も進みましたが、アヘンを除けば貿易赤字が続きました。

 また、このときロシアにより、まずアイグン条約(1858年)で黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸を、さらに北京条約(1860年)で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸を割譲させられ、ロシアはそこをアムール州、沿海州として編入し、プリアムール総督府(ロシア語版)を設置しました(外満洲)。これは現在の中露国境線を形作るものです。なお新疆についても1864年タルバガタイ条約が結ばれイシク・クル、ザイサン湖以西を失いました。

 同時期には、国内でも洪秀全率いるキリシタン集団・太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)、ミャオ族による咸同起義などが起こり、清朝の支配は危機に瀕しました。

 穆彰阿の「穆党」の中から曽国藩が頭角を現し、李鴻章や左宗棠と湘軍を率いて鎮圧にあたりました。1861年、同治帝が即位すると穆彰阿は失脚し、皇母西太后による垂簾朝政下で曽国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が力を得て北洋艦隊などの軍閥を形成してゆきました。また、政治・行政面では積弊を露呈していた清朝の旧体制を放置したまま、先ずは産業技術に於いて西欧の技術を導入する洋務運動を開始しました。


天津条約の調印の様子
Source:Wikimedia Commons
天津条約(Convention of Tientsin)は、1884年12月に朝鮮において発生した甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章の名をとって「李・伊藤条約」とも呼ばれています。この条約によって日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられました。


半植民地化・滅亡

 北西部の新疆(現・新疆ウイグル自治区)では、ヤクブ・ベクが清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領しました(ヤクブ・ベクの乱)。

 ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領しました。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結しました。

 イリ条約に基づき、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入しました。カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲し(外西北)、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されてゆきまし。これに対し、清は1884年新疆省を設置すると伴に旗人のイリ将軍らの施政権を削り、陝甘総督甘粛新疆巡撫が軍事行政を管轄する事となり内地化されました。ロシアは1892年にパミール高原に侵攻しサリコル山以西を条約無しで併合しています。

 1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボーリング条約を結びましだ。1872年、日本の琉球処分により清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球は、日本に合併されました。

 1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し、対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きましたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となりました。

 1886年、緬甸(ビルマ)は3度目の英国軍の侵略を被りましたが滅亡しました。


中国(CHINE)と書かれたパイが、列強により分割されている風刺画です。
人物は前列の左からそれぞれ、英国・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、
後列の手を挙げている人物は、清を示しています。

Source:Wikimedia Commons

 清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変(1882年)、甲申政変(1884年)を鎮圧しましたが、1894年に日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省(中国語版)の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失いました(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保しています)。

 「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけました。まずフランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国はいわゆる「三国干渉」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めました。

 この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせてゆきました、1896年から1899年にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)でした。満洲からモンゴルをロシア、長江流域を英国、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏としました。同じく、英国は九龍半島(香港総督管轄)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連(ダーリニー)(関東州、極東総督(ロシア語版)管轄)を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点としました。

 しかもロシアは賄賂をもちい露清密約で東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加しました。


 李鴻章と左宗棠の海防・塞防論争を契機として、技術面だけの洋務運動に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、康有為・梁啓超ら若い知識人が、清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めました。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉されました(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃されました。

 1899年、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃しましたが、次第に略奪を行う暴徒と化しました。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告しましたが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされ清の半植民地化は更に進みましだ。

 その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、1905年に科挙を廃止、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置きました。しかし、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢民族の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げました。10月、漢民族による武昌での武装蜂起をきっかけに中国で辛亥革命が起こりました。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古の中から独立運動がおこりました(モンゴル国)。ここに清は完全な内部崩壊を迎えたのです。

 翌1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立された。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡しました。


清・文化へつづく