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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

西夏(歴史)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆西夏(歴史)

 西夏(せいか、1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝です。国号は夏ですが、中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼びます。首都は興慶(現在の銀川)です。モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされました。


西夏の位置
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歴史

起源と成立

 西夏の起源は唐初にまでさかのぼる事ができます。この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していました。その中、拓跋赤辞(中国語版)は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州に移住し平西公に封じられました。

 唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭(中国語版、英語版)が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立しました。

 宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進しましたが、これが夏国公の不満を引き起こしました。当初は宋朝に恭順であった平西公ですが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになりました。

 李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始しています。その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、チベット・ビルマ語派のタングート語を表記するための独自の文字である西夏文字を制定しました。

 即位の翌年からは、長年の宿敵である青唐のチベット系勢力青唐王国(1032年 - 1104年)を攻めて決定的な打撃を与え、さらに1036年には宋の支配下であった、河西地方西部の粛州・瓜州・沙州に兵を進めて制圧しました。またチベット系をさらに牽制するため、蘭州近郊へ兵を送りました。そして1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。

建国初期から全盛期

 西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めています。この軍事対立は1044年の和議成立(慶暦の和約)まで続きました。宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得しました。

 しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至りました。ただ、宋との和議成立後もたびたび局地的な戦闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていました。

 李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である没蔵氏による摂政が行われました。この時期遼による西夏攻撃が行われ、西夏は敗北、遼に臣従する立場となりました。

 1063年、吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属しました。皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出ますが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになりました。しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしています。李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなりました。

 1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始しました。1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めました。李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなりました。そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなったのです。

 李乾順の死後は息子の李仁孝が即位しました。この時期西夏国内では地震と深刻な飢饉が発生し民心が乱れ、各地で農民蜂起が発生しました。これに対し李仁孝は国内に各種改革を行い、社会経済の発展と、社会の安定に努めました。

衰退


西夏の位置(黄緑)
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 李仁孝の死後は息子の李純佑が即位したが、この時期になると政治腐敗が進み、国勢は凋落の一途を辿っていました。その状況下の1206年、親族の李安全が帝位を簒奪し李純佑を殺害、それまで金に依存した外交政策を見直し、当時強大な勢力を誇ったモンゴル族に依存する政策を採用しました。

 李安全は金に対し十余年に及ぶ軍事行動を発動しました。この軍事行動は金のみならず西夏の国力を疲弊させるものであり、また飢饉などで貧困が続いていた民衆の離反を招き、また政治腐敗のみならず、皇帝自らが酒色に溺れ朝政を省みない状況で国内は一層不安定なものとなっていました。またモンゴルに依拠した外交政策も、西夏の安全を保障するものでなく、1205年にはモンゴルは西夏侵攻を開始、1209年までに3次に亘る西夏出兵ですでに国力は限界に達しました。

 1211年、西夏で宮廷クーデターが発生、李遵頊が帝位を簒奪しました。しかし中興に影響を与えるものでなく、西夏の国力は下降線の一途を辿りました。1216年、西夏はチンギス・カンの出兵要請を拒否します。その行為はモンゴル側の怒りを招き、1217年に第4次西夏遠征が行われるに至りました。1223年、李遵頊は自らが亡国の君主になることを避けるため、太子の李徳旺に譲位した。

 西夏は李安全と李遵頊の治世下で滅亡寸前の国力となっており、李徳旺の登場で復興できる状態ではありませんでしたた。李徳旺はモンゴルに対抗するため、チンギスが西征した機会を狙ってモンゴルを攻撃しようとしましたが、事前に情報がモンゴル側に漏れ、1224年にモンゴル軍により都銀川が包囲されるとモンゴル軍に投降、人質を送ることで滅亡することはわずかに免れることができました。

 1226年、李徳旺が病死し、甥の李睍が皇帝に推挙されたが、翌年に李睍はモンゴルに投降し、まもなく、李睍は西夏の君民とともにモンゴルの太子オゴデイ(太宗)によって殺害され、ついに西夏は滅亡しました。

夏国公
 李継遷と李徳明は皇帝に即位していないが、西夏建国後に皇帝号を追贈されました。1038年、李元昊が皇帝に即位しています。



Source: Wikimedia Commons


西夏・文つづく