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Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

五胡十六国(歴史2)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は五胡十六国の歴史2です。

戦乱の前段階

 前漢の宣帝の時代に匈奴が分裂し、後漢・光武帝時代には醢落尸逐鞮単于が光武帝の下に入朝し、匈奴は漢朝領周縁に居住する事となりました。後漢末期には山西省北部に居住するものもいました。一方、北アジアの覇権は鮮卑に奪われます。

 鮮卑は2世紀・3世紀に檀石槐の元で北アジアに覇権を唱えましたが、その後分裂しました。西にいた羌族は漢の統制下に入っていましたが、何度か漢に対し反乱を起こしました。

 氐族は前漢代より甘粛・陝西・四川に居住し、漢の支配下に入っていました。この氐族は漢化が進み、後漢末期にはほとんど定住農耕民として暮らしていました。

 また、三国時代には魏の曹操や曹丕が、周辺異民族の自国領周縁への移住政策を行った事もあります。

 内地へ移住した諸民族は、それまでの部族形態を維持したまま中国の傭兵として使われた場合が多伊と言えます。


西晋時代の北方遊牧民族の領域
Source:wikimedia Commons

五胡十六国時代の幕開け

 三国時代の抗争の後、ようやく中国を再統一した晋の司馬炎は、統一後政務に専念せず、女色に耽って政治を省みないようになります。その死後、即位した恵帝は暗愚で知られる皇帝で、皇后の賈南風などに利用されるがままでした。賈南風らは自分達の権力を固めようと諸侯王たる皇族達を巻き込み、八王の乱と呼ばれる内乱を勃発させたため、国内は大騒乱となります。

 この乱が大規模なものとなった理由には、晋が諸侯王に対して与えた兵力がかなり大なものであった事が挙げられます。前代の魏は諸侯王の兵力を大きく削り、監視を厳しくし皇帝に対する反乱おきないように抑えつけました。その結果、諸侯王は反乱を起こせなくなり、皇族間による内乱は発生ませんでした。

 一方、中央では短命な皇帝や幼帝が続いた事もあり、重臣の司馬懿が台頭するようになったものの、これを抑える力を持った諸侯王も登場しませんでした。結果として、魏は司馬氏による簒奪を許してしまったのです。

 簒奪の結果、成立した晋は、これを教訓に諸侯王に大きな兵力を与えましたが、それが過ぎたため、今度は有力な諸侯王による権力争いが生じ、彼らは己の兵力により対抗し合ったため乱は泥沼化しました。諸侯王は友好関係にある塞外異民族を傭兵として用いました。

 八王の乱は306年に終結しますが、晋の国力衰退は明らかとなり、匈奴の単于の家系である劉淵はこれを好機と見みました。彼は八王の1人であった成都王司馬穎に従い鄴に駐屯していましたが、都督幽州諸軍事王浚・并州刺史司馬騰の討伐を名目に、鄴から離れ、304年に山西の離石で自立して匈奴大単于を名乗り、漢と匈奴が兄弟の契りを交わしていた事を名目に漢王の座に就きました(劉淵死後に改称して前趙となります)。

 同年には、四川でも巴賨族の李雄が成都王を名乗って晋より独立しました(後に国号を大成とし、更に漢と改称したので成漢と呼ばれています)。また甘粛では晋の涼州刺史であった張軌が自立し、前涼政権を建てました(王とは名乗らず晋に対して称臣していました)。

 こうして五胡十六国時代の幕開けとなります。

華北王朝の興亡

 劉淵は匈奴の羯族出身である石勒や漢人の将軍王弥を従えて山西一帯を攻略し、308年には漢皇帝を名乗ります。劉淵は310年に死去し、一旦は長男の劉和が後を継ぎますが、人望が無く異母弟の劉聡が取って代わりました。

 劉聡は翌311年に晋の首都・洛陽を落として恵帝の弟懐帝を虜にし、晋を実質上滅ぼしました(永嘉の乱)。その後、長安では残党によって懐帝の甥愍帝が擁立され、漢に対して抵抗を続けていましたが、316年にこれを滅ぼして、晋を完全に滅亡させました。

 晋の王族であった司馬睿はそれ以前より南の建業(後に建康と改称)に居ましたが、愍帝が殺された事を聞くと、帝位に就いて晋を再興しました。これは東晋と呼ばれ、前趙に滅ぼされた王朝は西晋と呼ばれます。

 318年に劉聡は死去し、後継を巡って争いが起きます。これは最終的に族子(同族内の子供の世代にあたる者の事)の劉曜によって収められ、劉曜は即位して国号を趙(石氏が建国した後趙と区別するため、前趙と史称されます)と改めます。しかし、東方の攻略に出されていた石勒は襄国(現在の河北省邢台市)に拠って自立し、翌年には大単于趙王を名乗りました。

 石勒はこの時鮮卑の拓跋部・段部と結んで王浚や劉琨を討伐して河北・河南を領有し、山東の曹嶷(そうぎょく)も滅ぼし、洛陽を境に前趙とにらみ合いました。その後10年程睨み合いが続きますが、劉曜は次第に酒色に耽るようになります。

 328年に劉曜は後趙に占領された洛陽を奪還するべく親征しますが、石勒の従甥の石虎の軍に大敗して捕虜となり処刑されました。残った太子の劉煕も翌年に石虎に敗北し殺され、前趙は滅亡、後趙が華北をほぼ統一しました。石勒は翌年の330年に天王を名乗り、更に皇帝に即位ました。石勒は333年に死去し、息子の石弘が即位しますが、石虎が廃位・殺害して自ら即位しました。

 石虎は鄴に遷都し、鮮卑段部を滅ぼして後趙の最盛期を作りました。一方で残虐な振る舞いが多く、溺愛していた息子の石韜が太子石宣によって殺されると石宣を含めた一族を多数殺害しました。

 石虎が349年に死去すると太子の石世が即位しましたが、間もなくして石斌に殺害され、彼の兄弟達による後継者争いが起きました。この時に漢人で石虎の養孫・石閔は後趙の皇族らを殺して簒奪し、国号をとと定めました。

 その際に、元の名である冉閔に戻しています。彼が建てた国は、後に建国された北魏などと区別するために冉魏と史称されますが、短命に終わったため五胡十六国の中には入っていません。後趙の残党はその後しばらく抵抗しましたが、351年に完全に滅亡しました。

 冉閔は石氏を筆頭とした羯族の連年の戦争と略奪を背景に、旧後趙領の漢人に異民族への復讐を呼びかける檄文を飛ばしました。結果、漢人諸侯の決起と胡族同士の戦いにより数十万に上る胡人が殺害され、残った異民族は故郷への脱出を図りました。史書によると無事に帰れた者は十に二、三と言われるほどであったといいます。しかし、東晋に対しても敵対した為、一部の漢人からも背かれました。

 その頃、遼東では既に337年に鮮卑慕容部が慕容皝の元で前燕を立てており、次男の慕容儁が後を継いでいました。冉魏の混乱を見た前燕は中原へと進出を図り、慕容儁の弟の慕容恪は冉魏軍に連勝し、352年に冉閔を捕らえて殺害、冉魏を滅ぼして龍城から鄴に遷都、慕容儁は皇帝に即位しました。


五胡十六国・歴史2へつづく