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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

(歴史)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆元 (歴史)


出典:中国歴史地図庫

 元(げん)は中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝です。

 注)モンゴル帝国
   モンゴル帝国は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。
   モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を
   大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、
   チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げ
   ました。最盛期の領土面積は約3300万km2で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は
   1億人を超え三大洋全てに面していました。

   本稿で対象位とする中国の元(げん)は、そのモンゴル帝国の後裔の一国に位置付けられます。



元の版図(1294年)


チンギス・カン


 正式国号は大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)とも言います。

 モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」です。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国を支配後、正統な中華帝国になった国」というように認定されています。

 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一王朝であり、大都(現在の中華人民共和国北京)から中国とその冊封国やモンゴル帝国全体を支配し、明(1368年 - 1644年)に追われて北元になってからはモンゴル高原に戻りました。

 中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国漢民族の伝統体制に同化されず、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行いました。行政制度や経済運営の特徴は南宋の仕組みをほぼそのまま継承しています。

元の概要

 元は、1260年、チンギス・カンの孫でモンゴル帝国の第5代皇帝に即位したクビライ(フビライ)が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (Dai On Yeke Mongghul Ulus.PNG) すなわち「大元」と称しました。

 つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せることから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の皇帝政権のことです。

 国号である「大元」もこれで一続きの政権の名称として完結したものであったと考えられますが、中国王朝史において唐や宋など王朝の正式の号を一字で呼ぶ原則に倣い、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「元」と略称されます。たとえば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・カンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多いと言えます。

 クビライが皇帝の位につく過程において、兄弟のアリクブケと帝位を争って内戦に至り、これを武力によって打倒して単独の帝位を獲得するという、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位でした。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和・対立が、互いに武力に訴える形で顕在化することになりましたた。


クビライ

 特に、大元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴデイ家(オゴタイ家)のカイドゥがクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、『集史』をはじめペルシア語の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」と呼ばれたような自立した勢力を成しました。

 帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力に訴えるべく大軍を幾度か派遣しましたが、派遣軍自体が離叛する事件がしばしば起きるという事態が続きました。この混乱は西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイルハン朝といった帝国内の諸王家の政権を巻き込み、クビライの死後1301年にカイドゥが戦死するまで続きました。

 かくしてモンゴル皇帝のモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、モンゴル皇帝の権威の形が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かいました。すなわち、これ以降のモンゴル帝国は、各地に分立した諸王家の政権がモンゴル皇帝の宗主権を仰ぎながら緩やかな連合体を成す形に変質したのです。

 こうした経過を経て、大元はモンゴル帝国のうちクビライの子孫である歴代モンゴル皇帝の直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された政権となりました。つまり、大元は連合体としてのモンゴル帝国のうち、モンゴル皇帝の軍事的基盤であるモンゴル高原本国と経済的基盤である中国を結びつけた領域を主として支配する、皇帝家たるクビライ家の世襲領(ウルス)となったのです。

 一方中国からの視点で見たとき、北宋以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、遼(契丹)や金の統治を受けた北中国と、南宋の統治を受けてきた南中国が統合されました。チンギス・カン時代に金を征服して華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などを接収、対金戦で生じた荒廃した広大な荒蕪地では捕獲した奴隷を使って屯田を行いました。

 また大元時代に入る前後に獲得された雲南では、農耕地や鉱山の開発が行われています。首都への物資の回漕に海運を用い始めた事は、民の重い負担を軽減した良法として評価されます。元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国やケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンやマー・ワラー・アンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都や泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入したのです。

 モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われました。モンゴル王侯や特権に依拠する商売で巨利を得た政商は、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業に資金を投入しました。


1345年当時の世界

 大元朝時代も金代や宋代に形成された経典学研究が継続し、それらに基づいた類書などが大量に出版されました。南宋末期から大元朝初期の『事林広記』や大元朝末期『南村輟耕録』などがこれにあたります。朱子学の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになりました。鎌倉時代後期に大元朝から国使として日本へ派遣された仏僧一山一寧もこれらの学統に属します。

 14世紀末の農民反乱によって中国には明朝が成立し、大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追われましたが(北元)、明朝の始祖洪武帝(朱元璋)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることに象徴されるように、影響を受けていたことが近年指摘されています。


元・文化つづく